2500年前の孔子の言葉は『論語』にどれくらい保られているのか、これを調べるのがは文献学的アプローチである。研究が自らの正しさを研究する。この実証とは別の方法から、『論語』という原初的テクストが存在するとして、それに依拠することの意味を問うのがポストモダン孔子の構成である。『論語』を読む前に、内部の読みに絡み取られないように、読めるようになっていなければならない。それは、他者と共に、古典に依拠することの倫理的意味をできるだけ明らかにしていくことだ、と、わたしのような門外漢でもなんとかわかってきた。孔子と仁斎の祖述者 (子安氏)のもとに集まってくる市民にとって、他者とは、17世紀の仁斎であり、彼が脱構築した朱子であり、ポスト孔子の言説者達そして孔子と彼の弟子達である。問題なのは、連続性である。最大の継承者を失った孔子の悲しみを読んbだ、『思想史家が読む論語』から引く。
仁斎論語
<死生>の教説を解体する