漢字論

土曜日は府中へ、何十年ぶりだな。面白く能の舞台‪『国栖』‬をみた。今回も色々な感想をもった。天武天皇が登場する話に追う-追われるの二重化をみるが、そうして表現されている生死をめぐる元号的蘇りの神話的想像力に、亡命というものがあるのだろうか?中心とそれを活性化する周縁の関係を物語るだけではないか。帰り道は、天武天皇が編纂を命じた『日本書記』『古事記』に投射された「日本語」の「起源」の近代的構成について考えることになった。声の中に声を代理する漢字を見下したりまた国家の中に神をすまわせるすることの無理。漢字と神を逃がしてやれよ、そして同時に、声と国家も逃がしてやれと思うのである