大衆の暴力の構造 ーフランスでも日本でも

大衆の暴力の構造 ーフランスでも日本でも

 

 

国家の敵対的他者を標的にした<表現の自由>で何が意味されるのかについてはこれ以上深読みしても仕方ありません。三色旗の有難い意味が判らない者は<表現の自由>の意味も判らないのかと教えてくる文明の当惑のジェスチャーも大げさ。重要なのは、<表現の自由>という言説が、<表現の自由>を語る主体に触発する意味です。その自由の主張とは全く正反対な意味を機械的に反復してやまない主体の意味は何であろうか?と問いたいのですー「フランスを知らない者はだまれ」という主体にむかって。(それなのに、このわたしの言論の自由を考慮してくれないのか?)。「揶揄の自由」「商売の自由」に過ぎないものを、「表現の自由」と勘違いしている主体たちに向かって。ここに、大衆に向かって訴える、独善的な、靖国公式参拝の小泉や安倍の、国家の敵対的他者を標的にした<信教の自由>('おれのココロの問題だ')と同じ暴力の構造の問題があるといっても言い過ぎではないでしょう。