ゴダール「映画史』は面白二十世紀博物館である

No.1 ゴダール「映画史』は面白二十世紀博物館である

 

ゴダール、トリフォーム、リベット等のヌーベルバーガーたちはブルジョアのラングロゴワが創ったシネマテックにいたのですが、ここは映画館というか、映画館を利用したいかがわしい博物館ですよね。ゴダールは20世紀のぼくたちみんなは博物館の子供たちなんだと語っています。ゴダールは大学では人類学を勉強したのですよね。中沢新一NHKの講座「レヴィ=ストロース」をやったとき、最初にゴダールについて語ったのは理由のあることです。宇宙人である火星人の巨大な模型とか世界中の珍しいものが整理されずに雑然と展示されていたようです。ラングロワは映画を見せるときは、それと関係のある複数の映画の映像を一緒に見せたといいます。どうしてこの映像とあの映像とが関係あるのだろうかと考えたでしょう。ゴダールの映画史はラングロワの映像博物館のビデオ化ですね。自分は大学に行かず、10年間シネマテックに毎日通ったと言っていたフランス人の友人が昔ダブリンにいました。また恵比寿時代に隣に住んでいたフランス人の映画監督の友人もシネマテックにずっと通っていて、アルメンドロスという世界的なカメラマンと知り合って映画の道に入りました。わたしは彼と一緒に、トリフォー『大人はわかってくれない』の脚本を一年以上読み続けました。
新しく再建された現在のシネマテックは映画館オンリーになっています。昔の映像博物館のあり方とは違います。

『映画史』の冒頭はゴダールのタイプライターで書く姿を示している。まさに書く画家のように、打ちながら20世紀初頭のイメージがよびだされるように次々に現れる。ゴダールがイメージと呼ぶものはモナドライプニッツが呼んだ鏡をおもう。顔とか眼差しとか手とか暗闇の光の境界とかで書かれたものー映画史ーを映し出す鏡。20世紀精神の鏡。ゴダール『映画史』の最初は「世界ー内ー存在」の映像化である。ハイデガー存在論は死を強調しすぎて、それが絶望感と権威主義を引き起こしたと批判したアンナハレントは正しい。「世界ー内ー存在」は「世界ー内ー死」。されどハイデガーである。「死」を観念化した世界思想性がある。ゴダールは「世界ー内ー映画」と構成した。世界は見る欲望に従属している。

わたしはゴダールを考える人たちのなかにあって一人ぽっちだと感じるのは、亡くなった映画が蘇るようにゴダールの精神(鬼神)がかえってくることを願っているからである。
『映画史』のゴダールは、モンタージュの秘術によって歴史を支配するこの偉大な魔術師。暗い洞窟を自分の居場所に選んだ。
この暗い場所では、赤いランプの下で、
亡霊たちの交流が認めるものしか許さない。

わたしはポストモダンですが、ヘーゲルのファンです。わたしはあの亡霊みたいな肖像画が好きです。『小論理学』を読み、『法哲学』とかれの芸術論を読んで、この10年の間に『精神現象学』を読みました。初めて読む人は『歴史哲学』がお勧めです。
わたしは12年間海外に放浪していたのですが、外国で死んでしまうと共同体に祀られることもなく抽象的 に<死体>になってしまうことに恐怖を覚えました。これにたいしてコミュニストは祖国もないしあっても自分が選ぶ国ですし、墓もいらないのです。あっても無名墓地でいいのですね。こういうのは土に対する執着のある日本知識人にはわかりません。平田篤胤パトロンの要求にしたがって、死後の魂が国から遠く離れずに、家族の近くに留まるような思想を作りました。
ヘーゲルは精神としての死を考えました。その精神は、鬼神と同じように、帰還してくるものです。台湾の孔子祭では、官僚たちが傘を以って孔子の魂を受けるのですね。ヘーゲルの「精神Geist」はアジア思想の「鬼神」のことです。精神イコール鬼神という関心から、西欧思想とアジア思想の交差を考えているところです。
鬼神論は朱子が発展させました。鬼神論は古代中国の『易』にもありましたが、朱子が構築した鬼神論は、彼の理気二元論を前提に、魂魄は共に気です。そ気の世界から、理気二元論の世界に投射されるものが亡霊とか鬼神です。わたしは、20世紀の重要な映画の名が殆ど忘却された現在、映画は死んでしまったと同じで、映画も鬼神だと思います。思い返されるならば映画は帰還してきます。スクリーンは最初から死衣裳でした。何の映画が何の映画の後にきたかと思い出すその思い出し方は発明にちかい面があります

 

 

 

 

ヒチコックのクローズアップの映像の後に来る、ゴダールのタイプライターで書く姿の映像の後を見ると、ハーレントについてわたしは考える。ハーレントによると、近代の問題は根なし草の大衆の問題。都市に流れてきた人達をスターリンが世話して労働者階級にした。他はファシズムが世話をした。ヒトラーアメリカとの闘いをハリウッドとの闘いと考えた。だからラジオと共に映画は欠かせないとおもった。だがどうして戦争が起きたのか?ここでも手で考えるゴダールが語るように互酬の話が役に立つ。映画から与えられたものを人々は映画に返さなかった為に復讐を受けたのだ。映画から与えられたものは、他者の手にほかならない。決定的な崩壊は、飢えから来るのではなくて、友情の喪失からくるものなのだ。ソビエトはハリウッド映画に勝る国家のイメージを作らなければ存続の危機を意味した。しかし「夢の工場」に疲弊してしまった、と、『映画史』の中でレーニンの臨終と映像と共に、神話的に語られる言葉。書く画家において、記憶の彼方に読めなくなったものを読むためにパロールとものとが豊かに絡み合う。

 

 

 

No.2ゴダール「映画史』は面白二十世紀博物館である

ゴダール映画史に、20世紀歴史と同じ大きさをもったスクリーンがある。

ゴダールは映画の歴史についてのイメージを作る。思考と共にあるイメージを成立させた。映画万歳に非ず。映画は失敗した。収容所は、収容所を撮らなかった映画史のブラックホールだと。

モンタージュよ、我が精神の編集

『映画史』のゴダールの考えでは、収容所の映像なき映画の歴史は決定的な映像を持っておらず破綻しているが、失われた公理を求めるように、モンタージュによって収容所を再構成できると考えた。映画は過去に介入しなければいけない。そうして水をかける映像こそはユダヤ人を救い出す筈なのだ。収容所の決定的な映像が無いために、「噫、映画は予れを滅ぼせり」と嘆き、「我を知るものは其れ映画か」というゴダールはあきらかにスクリーンを仰ぎ見ていた。ゴダールの『映画史』という映画は、年代順的な言語のなかにある映画を、そこから引き離すことによってである。映画史の見失われた公理を構成するのはモンタージュである。モンタージュよ、我が精神の編集である

若い男
背にやを受けた詩人
性根
英語監督
女優
アニメの映像
アンナカリーナ
照明
ニュートン
比較の中におかれた女優
暗闇の中の女優
ヒトラー

成立病患者とスクリーン
絵画
ユートピア
戦闘機
群衆
絵画と映画もコラージュ
車を運転する男よ亡霊
ヒトラーに扮したチャップリン
死体
歓呼する群衆の顔
ナチス集会場
死体
先生と子供たち
ナチスの旗とkしだえ戦車
怪奇映画
少女
フランケンシュタイン
顔と手たち
女たち
爆撃20世紀FOX
キリスト
銃殺の虐殺(ゴヤの絵)
捨てられた死体
ドイツの将軍
竜退治も騎士(中世の絵)

芸術家も顔
人を喰らう巨人
群衆


顔と手
踊る男女
訪問
ふれ伏した死体
地下に隠れる母親
収容所も弦楽四重奏団
おののくレンブラント
湖畔のボード
マリア像草
飛行機
ピカソの絵

拷問刑
縛られる裸体の女
死者たち
苦悶する男の表情
ドイツ零年の少年
水着の女
旗を持つ少年

男女
おののく女
ドラキュラ
暗闇の亡霊
背後に矢を受けたジーフクリフト
廃墟の中の少年
旗と男の姿

ゴダール「映画史』は映画の起源はヒチコックかマネか、ゲルニカピカソかを考える。最初に言わなくてはいけないことは時間を守ってきたのは映画であるということ。20世紀の精神はそこに宿った。すべての歴史と精神を編集せよと呼びかけている。

 

 

No3.ゴダール「映画史』は面白二十世紀博物館である

 

フーコ『言葉と物』、この一冊のなかには何冊つまっているのか?華厳教じゃないけど、無限だ、少なくとも1000冊以上だ。見つめてくる本の真ん中に鏡があり、本の傍らに無がある。
ゴダール『映画史』の中の映画を数える。フーコ『言葉と物』を構成する本達のように無限だ。
イメージの本はそういうものだ。映画を見つめてくる本にしたのは、他者の顔とその傍らに存在する無を創造したかったから。ロゴスは無を利用して自らを再構成する。映画史は、モンタージュを利用して、映画を思考手段とする思考のイメージ。
無限に豊かになっていくものと無限に貧しくなっていくものとが媒介なく結びついていたジョイスにおける美が、ゴダールにおいては、表象と表象なきものとが無媒介に結びつくあり方をもつ。モンタージュである。

両手を広げる女
横たわる女を散り囲む男女たち
少年
本のページのアイリスアウト
ろうそく
フィルムの影
赤ん坊を抱く死に神
ギャングの撃ち合い
顔なき女
魔女
罪人を乗せた馬の傍らに佇む少年

撃たれた男
コラージュ
風と共に去りぬの女優
大地を走るトラックたち
撃たれて苦しむ女
這いつくばって銃を握る女
男の頭を抱えて接吻する女
王女
チャップリン
女とフィルムの運動
裸体の女と乳首
見上げる金髪の女
アイリスアウトの人々
ヒチコック
若い男を誘惑するカルメン
『軽蔑』の場面(オデッセイ)と重ね合わされる
男の顔
白黒映画の老人
男たちの顔で作ったコラージュ
見上げるゴダールの視線と顔
リュミエール兄弟で作ったコラージュ

 

カルメンという名の女』(1982)は、病院の花壇にいるゴダール自身の姿から始まった。ビゼーのオペラは口笛だけ。寧ろ映画はベートーベンの音楽で成り立っている。銀行襲撃の場面で男女が出逢うが、彼らのこの絡みあいは彫刻を表象させる。そして二つの直進的系列。音楽の系列を為すベートーベン弦楽四重奏曲9番、10番、14番、15番、16番と、自然の系列を為す夜明けの波たち。彫刻的なものを映画と呼んでいるようだ。「カルメンという名の前は何だったの?」愛人は、存在や事物の単純さか、言葉が透明さによるのか、答えられず、失望されてしまう。「やはりあなたとは大したことができないわ」。起源があれば撮影できるし語ることだってできたのに

‪『軽蔑』( Le Mépris 1963)についてまず言わなければならないことは、これはゴダールの映画である、と同時に、ゴダールの映画ではないということ。プロデューサーは彼の映画にブリジット・バルドーの裸体の映像を求めたとき、ゴダールは映画から自分の名前を消すことを条件に了解した。
『軽蔑』はブリジット・バルドーモラヴィアである。映画のラストは、ギリシャ悲劇の何の必然もないような不条理な死がバルドーに起きる。映画は『軽蔑』と名づけられたが、この映画のなかで一体なにが軽蔑されているのかさっぱりわからないプロデューサーと共に、事故死の最後であった。ゴダールは、「恐竜」であるラングが語るヘルダーリンの詩とブレヒトの言葉を「赤ん坊」のゴダール自身のために朗読させていたか?

ブレヒト
マフラーの女
バスターキートン
男女と映写機フィルム
似た者同士
ジオットの天使
修道女
カメラを持つ男
ラングロワ
小舟を漕ぐ男と眠る少年
牢屋
男女とフィルム
オーソンウエルズ
雲の形の光
男と家
リュミエール
物憂げな女

ジオットの天使
アイリスアウトの本のページ
街灯
収容所行き列車の中から外を伺う少女
手と本
列車を見る女
ジャンヌダルク
路に触れる手
ジャコメッテイ彫刻の手
男も手と女
眠る男女
差し出される手と握る手
兄と妹
コクトーのカミソリと眼
天使に促される少女
切り裂かれる眼球
拷問、画家カラバッジオ自身の首
音の横顔

アフリカ旅行のカメラ

葉巻を持ったゴダールの姿

映画人ゴダールは知識人サルトルブレヒトをどう考えるかという『映画史』に到達した彼における位置が、21世紀から変わって、知識人ゴダールは映画をどう考えるかとなっていった。『イメージの本』に明らかにサイードの影響を読みとることができよう。ゴダールの影響は、映画ファンを超えて、現代芸術のアーチストに広がることになった理由ではないか。

No3.ゴダール「映画史』は面白二十世紀博物館である

フーコ『言葉と物』、この一冊のなかには何冊つまっているのか?華厳教じゃないけど、無限だ、少なくとも1000冊以上だ。見つめてくる本の真ん中に鏡があり、本の傍らに無がある。
ゴダール『映画史』の中の映画を数える。フーコ『言葉と物』を構成する本達のように無限だ。
イメージの本はそういうものだ。映画を見つめてくる本にしたのは、他者の顔とその傍らに存在する無を創造したかったから。ロゴスは無を利用して自らを再構成する。映画史は、モンタージュを利用して、映画を思考手段とする思考のイメージ。
無限に豊かになっていくものと無限に貧しくなっていくものとが媒介なく結びついていたジョイスにおける美が、ゴダールにおいては、表象と表象なきものとが無媒介に結びつくあり方をもつ。モンタージュである。

両手を広げる女
横たわる女を散り囲む男女たち
少年
本のページのアイリスアウト
ろうそく
フィルムの影
赤ん坊を抱く死に神
ギャングの撃ち合い
顔なき女
魔女
罪人を乗せた馬の傍らに佇む少年

撃たれた男
コラージュ
風と共に去りぬの女優
大地を走るトラックたち
撃たれて苦しむ女
這いつくばって銃を握る女
男の頭を抱えて接吻する女
王女
チャップリン
女とフィルムの運動
裸体の女と乳首
見上げる金髪の女
アイリスアウトの人々
ヒチコック
若い男を誘惑するカルメン
『軽蔑』の場面(オデッセイ)と重ね合わされる
男の顔
白黒映画の老人
男たちの顔で作ったコラージュ
見上げるゴダールの視線と顔
リュミエール兄弟で作ったコラージュ

カルメンという名の女』(1982)は、病院の花壇にいるゴダール自身の姿から始まった。ビゼーのオペラは口笛だけ。寧ろ映画はベートーベンの音楽で成り立っている。銀行襲撃の場面で男女が出逢うが、彼らのこの絡みあいは彫刻を表象させる。そして二つの直進的系列。音楽の系列を為すベートーベン弦楽四重奏曲9番、10番、14番、15番、16番と、自然の系列を為す夜明けの波たち。彫刻的なものを映画と呼んでいるようだ。「カルメンという名の前は何だったの?」愛人は、存在や事物の単純さか、言葉が透明さによるのか、答えられず、失望されてしまう。「やはりあなたとは大したことができないわ」。起源があれば撮影できるし語ることだってできたのに

‪『軽蔑』( Le Mépris 1963)についてまず言わなければならないことは、これはゴダールの映画である、と同時に、ゴダールの映画ではないということ。プロデューサーは彼の映画にブリジット・バルドーの裸体の映像を求めたとき、ゴダールは映画から自分の名前を消すことを条件に了解した。
『軽蔑』はブリジット・バルドーモラヴィアである。映画のラストは、ギリシャ悲劇の何の必然もないような不条理な死がバルドーに起きる。映画は『軽蔑』と名づけられたが、この映画のなかで一体なにが軽蔑されているのかさっぱりわからないプロデューサーと共に、事故死の最後であった。ゴダールは、「恐竜」であるラングが語るヘルダーリンの詩とブレヒトの言葉を「赤ん坊」のゴダール自身のために朗読させていたか?

ブレヒト
マフラーの女
バスターキートン
男女と映写機フィルム
似た者同士
ジオットの天使
修道女
カメラを持つ男
ラングロワ
小舟を漕ぐ男と眠る少年
牢屋
男女とフィルム
オーソンウエルズ
雲の形の光
男と家
リュミエール
物憂げな女

ジオットの天使
アイリスアウトの本のページ
街灯
収容所行き列車の中から外を伺う少女
手と本
列車を見る女
ジャンヌダルク
路に触れる手
ジャコメッテイ彫刻の手
男も手と女
眠る男女
差し出される手と握る手
兄と妹
コクトーのカミソリと眼
天使に促される少女
切り裂かれる眼球
拷問、画家カラバッジオ自身の首
音の横顔

アフリカ旅行のカメラ

葉巻を持ったゴダールの姿

映画人ゴダールは知識人サルトルブレヒトをどう考えるかという『映画史』に到達した彼における位置が、21世紀から変わって、知識人ゴダールは映画をどう考えるかとなっていった。『イメージの本』に明らかにサイードの影響を読みとることができよう。ゴダールの影響は、映画ファンを超えて、現代芸術のアーチストに広がることになった理由ではないか。

アフリカの子供
カメラと黒人
女性
刺青
映画のカメラマン
海賊
ボバリー夫人
じゅうじkっを見つめた女
似たもの同士
異形の者
映画の発明
映画を見る父親と娘たち
ハリウッド映画のモーゼ
葉巻をくわえたゴダール

 

 

No4.ゴダール「映画史』は面白二十世紀博物館である

映像が立派でもイメージを支配する自分の言葉に気がつかないハリウッド映画は怖い。シナリオのような言葉が先行していてその言葉のために集めてきた映像を晒し首の如く晒している

私はプラトン的に考えますが、肉体も魂もいつかは消滅すると考えたアリストテレスの見方も考える。無限の高さは地上に存在するものだ。あるいは、あの世がこの世を支えてくれる最高なものだとしても、この世から見えるあの世が大切なのだ。ゴダールならば、この世にあの世を映し出すスクリーンが必要だと言うであろう。またあの世を包み返すこの世に、あの世を超えるものがなくてはいけない。何とか努力して、プラトンの洞窟に、光を入れなければい...それは何だろうか?
しかしそれは太陽ではなくてセザンヌの光である。

ゴダールは映画の歴史を生き抜いたミシェル・ピコリMichel Piccoliとともに、フランス映画百年を考える。
二度の世界大戦は、世界の中心としてのヨーロッパの危機意識を深化させた。戦争が起きたのは自国中心主義の結果だとしたら、サイレント映画の、国家の領土と民族に還元されない普遍言語としての意義がフランスにおいて認識された。戦後のフランス映画にとって、サイレント映画は、音声中心主義の近代にたいする批判の拠点として、サイレント映画以上の意味をもつことになった。
時間が映画をまもった。逆である。映画が時間をまもったのである。

貧民街で手を繋ぐ人々
ユダヤ司教を利用したコラージュ
列車のコラージュ
聖人
女性の笑顔
アニメの犬
精神分析の実験
男性たち
街道に倒れた女
少女
驚愕した女
座っている若い女と中年の女
スーラの絵、安らぎの人々
レンブラント肖像画に敬礼するカラビニエ

‪『カラビニエ』(仏語 Les Carabiniers、「カービン銃兵たち」の意 。1963)は、年ロベルト・ロッセリーニの書いたブレヒト劇の戯曲をもとに、ゴダールが映画に翻案したらしい。銃殺される女性がロシア・アバンギャルドの詩を口にすると兵士達が発砲できなくなるシーン(ロッセリーニを喚起する)が印象的であるけれど、この映画にリアルな死体はない。リアルな戦争が見えない。兵隊カラビニエは強奪品として、観光客の絵葉書を掻き集める。芸術家レンブラントに敬礼している兵隊カラビニエの身振りとジェスチャーの意味は一体何だろうか。

ヒトラーと運動しるフィルム
ライオン
裸体の女
女性
男性
照らされたひび割れた両手
女を抱く男
カメラマン

影の中の男にキスする女

チャップリン
バイオリンを弾く男と物憂げな女
少女に接吻する男
古代衣装でダンスする女
男女
女の首にキスする男
両手
聖人
ゴヤの絵

男女と映写機
ヒチコックのサイコ、河に身を投げて溺れる女

フランスのモラリスト(文学的な哲学者の意)の人間探求の特色は、その探求の結果、単に抽象的、概念的に羅列することではなくして、必ずそれを一つの可及的に生きた具体的な像に再構成して見せることであるという。
ゴダールの映画を思考手段とする探究が言語の存在とともにある思考の像を構成している。映画はわれわれを見つめてくる本である。
バザンは普遍言語のプロジェクトをもっていた。世界大戦の原因は民族主義の全体幻想にあった。だから、映画の限りなく純粋な映像で構成される構想は、戦争の全体幻想に陥るどの民族語への依存を拒んだのである。人間は政治的存在であり、同時に、言葉が与えられている。しかしまさにここから排除されてしまうのが、言論で覆せないほどの絶対権威から自立しようとする不明瞭な発声(感覚)の領域である。教説の中からその内部にしたがって語ることを拒否した沈黙 'Verschwiegenheit'(秘密?)。ゴダールはここを可視化しようとした。マイナーな、スイス訛りのフランス語とか創造的どもりとかいわれるが、自分が語らなければならないと気がついてそれを実行するために30年かかったのだとわたしは考える。

 

No.5 ゴダール「映画史』は面白二十世紀博物館である

ゴダールは一生懸命の近代ではない。一生懸命の近代とは何か?一生懸命の近代とは、例えば日本語の起源を探してインドとか遠くに行って調べるのである。ポストモダンは一生懸命やらない。不可避の他者の卑近を考える。日本語の成り立ちは漢字である。さてゴダールは卑近にあるものを利用して映画を作る。そうすると自分をテーマにすることになった。他人の映像を盗む『映画泥棒』だとする蓮實重彦ははっきり指摘するが、ゴダールは研究する権利を主張している。本『映画史』を見ると、暗闇のなかに他人の映像(写真)を絵画的に再構成している。自己の周囲を道具箱にして、映画=死者を精神として帰還できるかを探究している。

ゴダールのテーマに孤独というのがある。映画の死と共に、ゴダールは孤独に直面しました。失業したときのように、自分の力で変える力がないような外部にあるあり方を孤独と呼んでいる。そのゴダールも死んだ。われわれゴダールを語る者はかれの「遺族」のようなものであるが、映画の魂も、ゴダールの魂も、消滅したらどうなってしまうのか。消滅したら、「遺族」は存在する意味がないだろう。こういうのは1000年前に、朱子と弟子たちの間でこの議論をしていたことで、朱子唯物論的なので魂も肉体と同様に消滅すると考えていた。これに弟子たちは危機感を募らせた。魂が消滅したら魂を迎える生者の儀式に意味が亡くなってしまいますと。ゴダールは書く画家でしたから、わたしにとって問題は、書く画家の魂の消滅と言えるだろうか。映画(鬼神)の映画としての帰還は可能かと生者の私は毎日考えている。

ゴダールの顔
葉巻の煙
人影
顔とフィルムのコラージュ
オスカー賞の偶像
遠方を見る男
インラビュー
剣で突き刺す男
互いに円弧を描いて踊る三人
スタジオ
少女
穏健をカーテン越しにみる男
森のジージュクリト
童話も小人の世界
少女を犯すファシスト
男女
穏健の首を絞める男
立ち入り禁止
葉っぱの中の顔
取っ組みあう男
ゴダール
女の首を掴む男
気狂い発明家と金髪の女
ミュージカルの女
男性とその傍らにあるスクリーンー女のうなじ接吻する男
水着の女たちーひとつの新しい涙
虫眼鏡で本を読むーそれはわたし
ドンキホーテに遭遇するレミーコーション
三人の人間ーそれはわたし
ジョイスとお尻
めき万歳ー骸骨と仮面
倒壊した橋の列車
男女
潜水する男
床の少年を照らす老人
眠る二人
乳房
飛行機
レンブラントの絵の女
顔のコラージュ
飛び降りる男
男たちから飛び出す女
スクリーンと人間l映画だけが
驚く女の顔
クローズアップ
噴射するアニメの犬
兵隊たちのコラージュ
タイプライトをうつゴダール自身
人間と映写機

ヨーロッパを燃やした世界大戦のときに映画が存在したのはなぜか?映画は事件だったのか。事件とは言説である。つまり反時代的精神としての精神(鬼神)は燎原の火である映画として蘇ることができた。

 

No.6ゴダール「映画史』は面白二十世紀博物館である

映像が立派でもイメージを支配する自分の言葉に気がつかないハリウッド映画は怖い。シナリオのような言葉が先行していてその言葉のために集めてきた映像を晒し首の如く晒している。

映画はカラーで始まったのではなく、喪の色である白黒ではじまったのはどうしてか。映画は生死を問う倫理的存在だからである。

少女の顔
安らぐ人々の背後
森の中の少年と少女
徴は至る所に

男の子と人形を抱えた女の子
クローズアップの少女の顔で作ったコラージュ
川も小波
男女クリムトの母と子
アイリスアウトの手
仮面
ギャングの男
女性の手

偶像
語る少女
男と映写機ー旅
映画の歴史
女性
クリムトの絵の女
アイリスカットの人の巣が
男性
走る男
女性

牢獄の中
窓の外を見るj少女
男性
死体たち
海辺の崖に座る男
アニメ
黄色と青色と赤色
大鏡の前に立つ女
顔に手を覆う少女
カメラマン
鳩を放つ男
映画監督たちの笑顔
指示を与える監督
アニメ
女のダンスと手
男と子供
男の顔で作ったコラージュ
少年とロバ
赤色と黄色の光の中に佇む女の姿
アニメ
物憂げな女の表情とアニメにコラージュ

人々
漫画の少女
監獄
少女の顔で作ったコラージュ
少年と梯子に捕まる女
小舟を漕ぐ男ー映画
ライフルを持つ女と男
アニメの妖精
血だらけの聖人
シーソーゲームの子供たち
裸体男の首に腕を巻き付ける裸体の女

私はプラトン的に考えるが、肉体も魂もいつかは消滅すると考えたアリストテレスの見方も考えている。無限の高さは地上に存在するものだ。あるいは、あの世がこの世を支えてくれる最高なものだとしても、この世から見えるあの世が大切に違いない。ゴダールならば、この世にあの世を映し出すスクリーンが必要だと言うだろう。またあの世を包み返すこの世に、あの世を超えるものがなくてはいけない。何とか努力して、プラトンの洞窟に、光を入れなければならない。それは何だろうか?
しかしそれは太陽ではなくてセザンヌの光

 

 

No.6 ゴダール「映画史』は面白二十世紀博物館である

哲学とは知識の統一である。哲学は、特殊の学によって以て成り立つ所以の根本原因を探究する。思想史は語られた物の見方が存在した歴史である。また映画史は語られた映画の歴史である。哲学は、言語的存在である人間は存在の意味を考える。歴史は原語のなかでそれに沿って存在する。時間とともに、何が語られた思想だったか、何が語られた映画だったかわからなくなってくる。思想も映画も隠れて来るのである。だからこそ思想史も映画史も、ずっと前に語られてきたのに初めて語るかのごとく、あるいは、初めて語るのにずっと語られたかのように語るかの差異があるが、語りえないものを語って、哲学がこれを読むのである。ゴダール『映画史』のモンタージュー物で書かれたものーもどれもゴダールにとって明らかな意味をもっているが、諸断片が引用されている映画を同時代的に観ていないわれわれのほうは意味を考えることがどんどん難しくなっていくだろう

チャップリン

女の眼差し

小舟に横たわる男

顔で作ったコラージュ

女の上半身

座っている物憂げな女

ゴダールの顔で作ったコラージュ

ゴダールの顔と駆ける少女

ゴダールの顔と街頭で助けを請う女

ゴダールの顔と裸体の女

カーテンの女

ジャンヌダルク

ギャング

女性

女の背中と男の顔

手と男

ゴダールの顔

カメラマンー消すことができるものが

女性ー書くことができる

コメディアン達と少女

マリリンモンロー

裸体のゴダール

 

God-artとはなにか

映画の歴史は死に切った過去である。と、そう考えてみたら映画についてどういうことが言えるかゴダールは考えてきた。『映画史』は映画の終わりを見届けたのであり、その意味で死に切った過去だ。だけれど消滅せずに『映画史』に継承された。
死を考えた『映画史』は死んでいるのか生きているのかわからない病気のような過去に囚われている人間よりも思想的な場所である。
21世紀に入って、前世紀の主要な映画の名は殆ど忘れられた。すると、ゴダールの名は、デカルトが哲学を表すように、映画を表すようになってきた。リア王のように孤独に生き残ったゴダールはGod-artとも呼ばれるようになった。多分、人々はGod-artに宗教を読み解こうとしている。人間は永遠に生きたい意志があって、世界と対立する。死が矛盾である。これを乗り越えるためには、我についての発想の大転換が必要で、世界に我があるとする。その世界とはゴダールにおいて映画が語られる世界である。それは未来を思い出す絶対の廃墟かもしれない。

 

 

No.7ゴダール「映画史』は面白二十世紀博物館である

 

ゴダールの思考の形式である哲学は、映画によって以って成り立つ所以の根本原因を探究する。ゴダールはスクリーンに投射する運動を映画と言うだけではなく、投射の運動を行うものはすべて映画だと名づけているようだ。ハムレットの最期、世界に自らを投げ出すのも映画、射影幾何学も映画である。映画と名づけることによって、思考不可能なものが思考可能になってくるこの問題提起は、ゴダールを死装束をスクリーンとみなしている極限までつれていく。

両手
女の背中にあてる手
両手を見る
カウボーイ
眼差しと胸
映画の歴史
ミッキーマウスー腰の位置の銃
女の胸
男性
女性
鉄兜
王の肖像画
サルトル
アルジェリア
フランス
血まみれの男の顔と手
女性
女も顔とフィルム
ゴダールの顔とフィルム
安らぐ少女
ルノワールの少女
ひたりの人物
クールべの絵
踊る二人の男と女
顔なき女
湖畔のレミーコーションー新ドイツ零年

ゴダールは、『新ドイツ零年』(Allemagne année 90 neuf zéro、1991)によって、「歴史」の領域にはいることになった。『アルファヴィル』(1965)のレミー・コーションを、探偵として、かつて東西を分断した境界を超えていくドン・キホーテの分身として呼び出している。『新ドイツ零年』はニューヨークで見た。衝撃だったのは、戦争という国家悪を外へ追いやるのではなくて、映画と現実とが溶け合う映画の諸々の断片によって形づけられた回想を通して、戦争国家を自己の内部に掘り起こすかのような編集である。国家が個人を超えて実在するのではなくて、逆に個人が国家を超えた実在である、そうでなければ、国家悪を超える思想領域と精神領域へ歩み入ることができないと訴えるかのように。‬

男性
黄色と赤色ーアルパチーヌ
ヒチコック映画の場面ー火災から避難する人々
女の顔で作ったコラージュ
ゴダールと録音マイク
暗闇
床に倒れた女
暗闇
朗読する女

花火と人間
音楽の裸体男と女
映画の撮影カメラを覗く少女
撮影機とスクリーン

詩人とは,書物の偉大な開かれたページを盗み去る人物であり,書物はそののち実体を失って空白となる.」(マラルメ)。その空白はゴダールにおいてスクリーンと呼ばれた

死体と天使

花園

キングコング
夕暮れ
社交ダンスの男女たち
女性
女優
マチスの絵の女
着飾ってた女性たち
自転車泥棒の惨めな父と息子
男性

テニスのジャンプ
女性
横たわる人間
レストランの客

ゴダールは、暗闇のなかの人生と色のなかの人生を媒介なく衝突させる。暗闇は高慢な理性を遠くに行かないようにするためにあり、色は説明の不在な豊穣さが羽撃くようにするためにある

 

No.8ゴダール「映画史』は面白二十世紀博物館である

哲学は意味のある命題自体で語る。哲学の認識とはそうして形成される知識の自己反省である。芸術は直覚である。哲学は芸術がよって以って成り立つ所以のものを考える。映画は投射であるという命題

 

ゴダールピカソの継承であるという評価があるが、ピカソゴダールも「巨匠へのオマージュ」がある。しかし差異があるようにおもいます。ピカソは<失ったものを取り戻せ>というような近代主義的「オマージュ」ではないか。そうして過去に惹かれながら、自己のシステムのなかで「ねじ伏せ」的に巨匠を再構成した。これは、<失ったならうしなうことができる>というようなベケットの方向で、ゴダールの場合は、ベケットの継承だと思う。『映画史』による過去の映画の編集は、過去を称えていながら、<失ったならうしなうことができる>という感じだ。「もっともはかない瞬間こそが、華々しき過去を所持するように」(エミリー・ディキンソン)

 

記憶に誘われて
ゴダール
女性の眼差し
女性
キリストの顔
レンブラントの絵
闇からの応答
男性の顔
男と犬
戦災地の女と助けにきた犬
子供を抱き抱える女
カメラマン
戦災地の人々
男の顔と橋
サングラスに男
女と手のコラージュ
ゴヤの処刑の絵
女性
戦いの女神
ロビンソンクルーソー
仮面
槍の人
オリエンタルの女性たち
死体
女の顔
貴族
破裂した顔
女性
聖人
ゴダール
ユートピアの絵
ラングのマブセ博士
男性
窓際に座る裸体の女
カメラと被写体の女
炎と女
火山
めいてえする老人
地の女性
逃げまとう子供達
女の唇
女性の彫刻

マネの女性
ダビンチの女性とゴダール
フェルメールの真珠の少女
女性
マネの娼婦
マネのバーメイド
ピカソの少年
カメラをまわす男
ナナ

ナチスの波多野の中の男
車内の人物
接吻
酒場の女
スター女優
女を抱える男
スター女優
観客席の二人
女優
ユダヤ人少女
収容所へ行く列車
庭にうる人物
牢の中で鎖に繋がれた若い男
女性の絵
17歳のゴダール

 

 

ゴダールの『JLG/自画像 』(autoportrait decémbre 1995)
ゴダールの78年からの映画復帰はウィットシュタインの哲学界への帰還に喩えられる。この7年後に、ゴダールは思考手段としての映画の意味を語っている。『JLG/自画像 』を読み解くためにはこのゴダールの言葉より最良のものはないだろう。

自画像、「『ゴダールによるゴダール』を撮るよう求められていたが、[JLG/JLG]の方がわたしは気にいっていた。[JLG/JLG]はひとつの自画像であり、自画像は原則として映画では作り得ないものだ。それは、なにか絵画に固有なものである。わたしはわたしにとって自画像を作ることがどういう意味をもつのか理解したいとおもっていた。映画において自分はどこまで行くことができるのか、どこまで映画がわたしを受けいれてくれるのか見たかった。作品のほうが人間よりも重要であると考えることは、かなり古典的な芸術観だ。それは「作家主義」と呼ばれてきたものだが、十分理解されているとはいえなかった。大事なのは主義ということであって、作家自身ではない。ピカソもまた、絵画において自分はどこまで行くことができるのか?とよく自らに問うた。画家が風景を描くことにうんざりしたとき、画家に残されていることはもはや自分自身を描くことでしかないのだ。映画はこれとはいささか異なり、ひとりで作ることはできないので、つねにその孤独な人間の周りにあるものを示すことができるのだ。わたしはずっと映画は思考手段だと考えてきた。(...)わたしは映画を構想しているときも幸せだが、物事が完成したとき以上に、なにか模索しているときの方がもっと幸せだ、(...)わたしは青年時代に読むことができた、ブランショバタイユの本に似た映画を一本撮ろうとしたのだ。たとえば覚えているのは、バタイユの『内的体験』、当時、わたしはアンリ・アジェルの講義に出ていた。彼はブニュエルの『糧なき土地』を見せてくれた。わたしは「これはまさに衝撃的な『歴史』の内的体験です」とかれにいった。要するにこういうことだ。映画は形而上学をするためにまさに存在する。そもそも、それは映画が行なっていることだが、ひとはそれに気がつかない、だからそれを行なっている人々はそれを公言しないだけの話だ。映画はそのメカニックな発明のために、何か極めて物資的なものであるが、それは逃避するために作られるのだ。そして逃避すること、それこそ形而上学にほかならない。‬‪ー ゴダール (渡辺諒訳)‬

 

男性

愛国者

真理であり正しいこと

デユラス

トリフォー

街頭の助けを求める女

拷問をうけた音

親衛隊の女たち

気絶する女

蝋燭を持って振り返る少女

収容所の女隊員

音声を背後から犯す獣

火山に唖然とする女

手に接吻する女

怒る女

アイリスアウトの若者

フェリーニの天使

ロッセリーニの修道士たち

ウィスコンテイのイタリア万歳

デシーカの悲惨な男

ヴィスコンテイの豪華な宮殿

映画監督

ロッセリーニ

パゾリーニ

妖精

ひとつの形式

 

ヴィスコンテイの貴族の館

ロッセリーニ

パゾリーニ

ひとつの形式

 

 

亡霊である精神が、描いたイメージの前で、微かな声で驚くべき重大なことを告げる。私はイメージを語ることは不可能であると。イメージと言語とは互いに独立していると。

映像は文で語られるようには作られていない。

映画批評とは書くこと。問題は、映像は言葉が分析できるようにはつくられていないこと。言葉は言葉が分析できるようにつくられているのとは異なっている(言葉が言葉の対象となるのは近代からであると『言葉と物』はおしえる。) 厄介なのは、書くことは、映像を分析できぬ自らの限界に無自覚に、映像について語ろうとするときだとゴダールは溜息をつく。映像を作るために言葉を必要とするのは映像の言葉への従属と読まれるかもしれないが、従属を非難しているというようなそれほど単純な話ではないようにおもう。たしかに、ゴダールは書くために映像を必要とするのが自分の方向であると言う。だけれどそれも従属であるに違いない。あえて同化にゆだねることを前提に、問われているのは、文字を、文字でないものに同化させてみようとすることの意味である。文字でないものとは、映像または音に限られるか。否、文字を沈黙に置くことが考えられているかもしれない。語る権利、声なき声を求める権利のために。近代の成立が可能にしている表象<映画>を沈黙させる言説を書くこと、これが1970年代後半に「映画史」を構想したゴダールの映画批評。‪はじめて近代批判が行われることになった70年代‬

No.9ゴダール「映画史』は面白二十世紀博物館である

ゴダールの『フランス映画百年』(2x50 ans de cinéma français 1995 )

ゴダールは映画の歴史を生き抜いたミシェル・ピコリMichel Piccoliとともに、フランス映画百年を考える。
二度の世界大戦は、世界の中心としてのヨーロッパの危機意識を深化させた。戦争が起きたのは自国中心主義の結果だとしたら、サイレント映画の、国家の領土と民族に還元されない普遍言語としての意義がフランスにおいて認識された。戦後のフランス映画にとって、サイレント映画は、音声中心主義の近代にたいする批判の拠点として、サイレント映画以上の意味をもつことになった。
時間が映画をまもった。逆である。映画が時間をまもったのである。

バザンは普遍言語のプロジェクトをもっていた。世界大戦の原因は民族主義の全体幻想にあった。だから、映画の限りなく純粋な映像で構成される構想は、戦争の全体幻想に陥るどの民族語への依存を拒んだのである。人間は政治的存在であり、同時に、言葉が与えられている。しかしまさにここから排除されてしまうのが、言論で覆せないほどの絶対権威から自立しようとする不明瞭な発声(感覚)の領域である。教説の中からその内部にしたがって語ることを拒否した沈黙 'Verschwiegenheit'(秘密?)。ゴダールはここを可視化しようとした。マイナーな、スイス訛りのフランス語とか創造的どもりとかいわれるが、自分が語らなければならないと気がついてそれを実行するために30年かかったのだとわたしはおもう。

17世紀は芸術も外に出はじめた。差異が価値を生み出すとマルクスがはじめてこのことを言った。空間の差異が価値を生み出すのである。しかし差異としての空間が世界から消滅したとき、差異としての時間がとってかわった。ゲームの規則が変わった。これからは時間の差異が価値を生産する。ここでマルクスが言っていたように時間と時間との差異が価値(剰余価値)を生み出すのである。しかし1970年における近代の終焉と共に、その時間的差異も消滅してくる。ポストモダンの同時代性の時代を迎える。さて萩原朔太郎が憧れたパリは舟で二か月もかかったが、飛行機で9時間で行けることができてパリは消滅してしまう。20世紀の大衆は失われた差異をリュミール兄弟の映画において読みはじめた。しかしあらゆる映画の表現は50年代までに消滅してしまう。もともと映画には未来がないといわれていた。1950年代後半から人々は過去の映画ー過去の映画を利用して制作された映画ーを発見した。かくもブルジョワが創造した都市は疎外されているおか?ゴダールの1990年代からの再構成ではあるが、アナーキスト系アーチストの「ヌーヴェルバーグ」と名づけられた感化の大きな運動は、ブルジョワが創造した世界の外部であったと言わざるを得ない。それは危機の時代と呼ばれた17世紀が帰結した博物館としての映画の意義であった。「僕たちはみんな、博物館museumのなかに生まれ落ちてきたんだよね」(ゴダール) シネマテックの世界化?

言葉が崩壊するのは、言葉が存在を託した何かとしての他者への贈り物でなくなったときだ。先ず愛である人間性が崩壊する。ゴダール『映画史』より

デユラス
男女
修道女
道化
イングリッド・バーグマン
死神
子供達
冥界

探偵レミーコーション
ダンスする人々
強姦される女
世界において
酒を飲む女
ボーイ
ボクサー
叫ぶ女性
窓と人間
女性
ヒトラー
女性と窓
カメラで覗く男
ギャング
大人は分かってくれないー少年
海辺に着いた少年
トリフォー
ブレッソンの映画
Toi Toi
野生の少年
鳥を放つ漢
マネ
映画監督
顔と暗闇
現実の博物館
天使
天使とラングロワ
ランプの傍にいるゴダールの姿
重なり合う平面像と人間
デユラス
暗闇
西部劇の岩山
ゴダール自身


目隠しの聖人

フィルム
ラングロワ
サンライズ
顔と女の身体
青年時代のゴダール
ジャコメッテイ彫刻の手
アニメの男女
絵画の道化たち
デユラス

ゴダールは、50年代と60年代は何処の国を撮っているかわからないようなフェミニンなバロック、エリートの絵画と大衆の写真を組み合わせたような理性の笑みのような映画を作っていましたが、60年代後半から怒りのロマン主義へとなって、パレスチナ映画と毛沢東主義の70年代があるわけです。80年代に政治から映画に復帰して来て、黄金の80年代と言われる大変充実した作品群を世に送り出しました。ゴダールの言説を語る映画は、ポストモダンの言説を語る思想として、あります。90年代は、自画像と共に成立する、映画の歴史を作ります。21世紀からは、有名な映画の名が忘れられていくなかで、ゴダールは映画を象徴する名となって、世界資本主義に抵抗するグローバルデモクラシーの言葉をかたるゴダールは、映画以外の芸術家に影響を広げて行くことになりました。

ゴダールの決別』(1993)は、ギリシア神話の神ゼウスと人妻とが浮気をするエピソードをもって、神と肉体について説話的に物語った作品であると解説される。夫が一晩家を空けた日、突然帰宅した夫シモン(ドパルデュー)が別人のようであった。シモンは妻ラシェルに「私はおまえの愛人であって、シモンの身体を借りた神である」と言う。最後に「Simon Donnadieu、シモン・ドナデュー」とサインをする。これは、Si m'on donne à Dieu、つまり「もしわが身を神に捧げるなら」を意味するというのである。さてゴダールはなにを問題にしているのか?問題となってくるのは、純粋に外部的な出来事とイメージの領域とのあいだの、いかなる関係または非-関係をうちたてるかを知ることにある。知は、肉体に宿った全知全能の神をもってしても思考なき表象のなかにとらわれていたままでは、関係または非-関係をうちたてることができない。出来事の力は失われていくばかりで意味を革命的に作り出すことも不可能となるだろう。知識をいくら増やしても仕方ない。要請される思考は、方法としての「思考の形式」である。ゴダールは神との目的合理性なき一体化(<GOD>ARD  DEPAR<DIEU>)を倫理的にもつことによって成り立つ「思考の形式」と表象の問題を『映画史』ー近代を問い直す3A “絶対の貨幣”ーにおいて論じていくことになる。

ゴダールの『ワン・プラス・ワン』(One Plus One 1968)から学ぶことは、対立物(魂/身体、善/悪、内/外、パロールエクリチュール、等々)を相互に関係づけ、転倒させあい、移行させあう運動と戯れをなす働きである。
“Sovietcong”,”Freudemocracy”,”Cinémarxism” という映画のなかに示される造語を笑うしかない。ゴダール文化人類学構造主義の原点がある。構造主義は強力な物の見方を構成できるが、構造主義は世界の半分しかみていないから、映画は開かれた全体にすんでいる以上、別の世界の半分を足してやらなければ...。ワン・プラス・ワン のプラス<たす> は、重ね合わされて交錯する多数の中断をもつ系列を為している。

カメラ
プロレス
顔ーヌーヴェルバーグ

ゴダールは『ヌーヴェルバーグ』(1990 Nouvelle Vague)で、俳優アランドロンを登場させた。アランドロンはかつてヌーヴェルバーグの敵だったこともあって、ヌーヴェルバーグの批判家たちに嫌われている。映画のアランドロンはゾンビであると揶揄される。見方によっては、キスというのは死者との接吻。実存論的な問いかえしにほかならない。それ以上である。「前近代」では類似者は常に生まれ変わりとして現れた。死者が生者の近くに存在しなければならない。再び現れたアランドロンは類似されているものとそれほど類似していたか?
映画はエレナの自然ーもの(光と闇)で書かれたもの(光と闇)との同一化ーへの愛を表現した。自然が大切にされたのは書かれている自然が存在するから

布と顔
女と子供
布と女
アイリスアウトの男性
映画監督
男性明け方の海辺を走っている男
女性ー欲望という名の電車

ゴダール映画史に、20世紀の精神と同じ大きさをもったスクリーンがある。ゴダールが究極的に依拠するものをそこに投射しないのは、カントが理の内に信を位置づけないのと同じである。ゴダールは映画についてのイメージを作る。思考と共にあるイメージを成立させた。映画万歳に非ず。映画は失敗した。収容所は、収容所を撮らなかった映画史のブラックホールだと。むしろ映画史は解体映画史でなければいけない。ゴダール「映画史』は映画の起源はヒチコックかマネか、ゲルニカピカソかを考える。最初に言わなくてはいけないことは時間を守ってきたのは映画、20世紀の精神はそこに宿った

 

No.10ゴダール「映画史』は面白二十世紀博物館である

わたしはバロック絵画におけるように、暗闇のなかに煌めくものに惹かれます。そして表があれば裏もあるという言葉が好きですが、絵画もそうです。光の裏側には、暗闇がありますが、その光自身もあります。つまり全てと自身を構成するものは無限です。これがわたしの理解です。ちなみに20世紀にスクリーンみたいに壁に掛かる鏡は映画と呼ばれるようになったのです。光が照らす鏡のなかに、暗闇のなかに煌めくものが見えます。宇宙飛行士か亡霊かもしれません。

 

ウィットゲンシュタイン
語り得ないことは
沈黙すると言ったが
盲人とはベラベラ喋った

手は友情
手に最高のものがある。
世の終わりだというとき、
先に友情の手が崩壊している

あなたには手が二本あるのか、と盲人がたずねる

眼が手を包み返すためには
眼はそれを超えるものをもっていなければならない
夜の静けさを打ち砕く
背後から突き刺す光のごとく
わたしは見る、故にわたしは存在する

精神(鬼神)として帰還する映画よ

 

 

 

 

暗闇



 

 

 

 

 




 

 

 

No.11ゴダール「映画史』は面白二十世紀博物館である

ゴダール『言葉の力』Puissance de la parole 1988  
フーコ『言葉と物』 の一文をおもう。‪「しかしまた、言語(ランガージュ)の存在と人間の存在とを同時に思考する権利は、永遠に排除されているのかもしれない」 ‪「さしあたりまったく確実なこととしてわれわれの知っている唯一の事柄といえば、西欧文化のなかで、人間の存在と言語の存在が、共存して互いに連接しあうことはけっしてできなかったという一事にほかならぬ。二つのもののこの非両立性こそ、われわれの思考の基本的特質のひとつであった。」ーフーコ『言葉と物』‬(渡辺一民訳)‬ But the right to conceive both of the being of language and of the being of man may be forever excluded ... The only thing we know at the moment, in all certainty, is that in Western culture the being of man and the being of language have never, at any time, been able to coexist and to articulate themselves on upon the other. Their in compatibility has been one of the fundamental features of our thought. ーFoucault。

言語的存在である人間は、映画と共に、思考できないことを思考する。

人生を振り返るとき、何処かで必ず映画を見ている自己がいる。それは芸術を欲望するただ中に自分の姿なのだ。思い出は思考の形式である投射と共にある。しかしテレビを見ている自己の姿は滅多にない。

La television fabrique de l'oubli...Pourquoi  veulent-ils oublier (Godard)
テレビは忘却をこしらえる。連中はなぜ忘れたがっているのか。

ハーレントによると、近代の問題は根なし草の大衆の問題。都市に流れてきた人達をスターリンが世話して労働者階級にした。他はファシズムが世話をした。ヒトラーアメリカとの闘いをハリウッドとの闘いと考えた。だからラジオと共に映画は欠かせないとおもった。だがどうして戦争が起きたのか?ここでも手で考えるゴダールが語るように互酬の話が役に立つ。映画から与えられたものを人々は映画に返さなかった為に復讐を受けたのだ。映画から与えられたものは、他者の手にほかならない。決定的な崩壊は、飢えから来るのではなくて、友情の喪失からくるものなのだ

失楽園
十字架
拷問
戦い
蝋燭を持った女
ナチスに手をあげる女と子供
映画監督
眼差し
鳥妖怪
ドラキュラの影
踊る大人
男性
ミュージカル
女性
ドレミのアンナ・カリーナ

気狂いピエロ』(Pierrot le fou 1965)。ゴダールの「東風」においてみられる東へ方向づけられる前に、南へ行く方向をもっていたことが言われるように、『気狂いピエロ』はロマネスク風ミュージカルに誘われる溝口映画を喚起する道行の旅がある。映画はルノワールの生き方を物語る。美学的な問題提起が映画を貫く。黄昏と透明を重ねあわせた、画家ベラスケスの言説が言及される。そして沈黙の交響曲が言説そのものを打ちまかす。映画のおどろくほど単純で純粋な詩は絶対を語る。
気狂いピエロ』のロケーション地はポルクロール島。囲まれない映画の歴史と同じ大きさをもっている。地中海の死と太陽の島が映画のすべての歴史と等価の大きさをもっている。必然として、アルチュール・ランボーの詩「永遠」が朗読される。と、いつの間にかわれわれは『山椒大夫』の島々にいるー


窓を開けてドラキュラを待つ女
外から様子を伺うドラキュラ
男性の影
女性と手
女性
性交
抱きしめる女
男性と女性と鏡

軍人と少女
光と影
若い女
男性
光と影
女性
マリリンモンロー
祈る少女
女性とアニメ
女たち
キートン
男女
女性の顔

ドラキュラ


裸体

黄昏の海
絶対の貨幣
ドラキュラ
山中で呼ぶ女
森の川
拷問される男

男女と映写機
少女

海辺で遊ぶ子供達
光と影
パラジャーノフーー錬金術的映像
二人の人物
暗闇の中の女
裸体
照らされる女
女性
ラファティーのエスキモー
囚人
男の
女の遺体
集まる人々
光と影
光と影と人間
ヒトラー
ヒトラーの顔のコラージュ
本を顔にのせられるイワン雷帝の臨終
赤い光


光と影

子供の顔

エイゼンシュタインー女性の歓喜

踊る男女達
顔と手
レミーコーションとカメラ

‪『フォーエヴァー・モーツアルト』(For Ever Mozart 1996 )は、仏語の「pour rêver Mozart」(「モーツァルトの夢をみるために」の意)。

「過去は死に切ったものであり、それはすでに死であるという意味において、現在に生きているものにとって絶対的なものである。半ば生き半ば死んでいるかのように普通に漠然と表象されている過去は、生きている現在にとって絶対的なものであり得ない。」これは三木清の言葉である。ゴダールにおいても死に切った過去を考えた。ゴダールはあえて映画の歴史は終わったと言ったその理由とは、伝統を固定するためだった。そうして此方に向こうに見える過去の姿を「ヨーロッパ」と名づけることになった。「ヨーロッパ」は依拠できる絶対の過去。モーツアルトの音楽と共に、われわれを見つめてくる本のような投射として構成されてくる。
この映画のなかで、オリヴェイラの言葉がひかれる。「ともかく私は、概して映画のそこが好きだ。説明不在の光に浴す、壮麗な記号たちの飽和」。映画はサラエボボスニアのイメージをもっている。だけれど「カラビニエ」(1963)のように、戦争と死が示されてはいない。大地の言語が湖を覆う。ゴダールの母の名を記した墓。廃墟の <オリジナル>無きイメージが成り立っている。寧ろそこで自己の人生を回想するのだろうか?モーツァルトは音楽によるヨーロッパの和解を体現している


逆光のゴダールの姿
映写機と人間
逃げ走る男
カメラマンと女優
光と影
ライトーヒチコックのサイコ
手をとられた女
女性
収容所列車の少女
太陽
窓から見える空間
光と影
サルトル
オーソンウエルズは歴史を嘲弄している

女優の顔で作ったコラージュ
光と影
アイリスアウトの子供たちの姿

光と影
女性
男女
聖人
手を頭の後ろに組む女性
少女

男性
ユダヤ人女性とゴヤの拷問の絵
ユダヤ人女性と持ちあげられた銃
スクリーンの人々
鳥獣
拷問される人間
光と影
キートン
銃を持ちあげる女
キリスト
光と影と編集台のフィルム
電車する女
F.ベーコンの絵ー男
エイゼンシュタインイスラエル
エイゼンシュタインーイシュマル

ゴダールとアンヌ=マリー・ミエヴィルの‪ 『ヒア & ゼア こことよそ』(Ici et Ailleurs 1974)。「ジガ・ヴェルトフ集団」の一部としてゴダールとジャン=ピエール・ゴランが1970年に作った親パレスティナ映画『勝利まで』のフッテージを使用して制作された。現代の国家はテレビのニュースが行う解釈のなかに存在する。これを解体するために、ビデオが積極的に利用されている。編集概念が政治化されている。理性が自己自身に関わるような、正しい理念、正しい映像が語られているが、他方で映像と音をめぐる言説<映像と音は関係である>で表象されるものを「ここ」と「よそ」と名づけている。ここからギリギリ思考可能なものが成り立つ。「ここ」を内部化してはいけない。思考と「よそ」にある思考できないものとの関係を切り離してはならないと。


アラブ兵
光と影
地と光と闇
女の顔ーモーツアルトは永遠に
本とヴィーナスの胸元

アニメの猫
バザン


カメラマン
暗闇の中の母と子供
スクリーンを背後にしたカメラマン
光と影
女の背中にあてた両手
光と影

闇の中の手
アイリスアウトの手
光と影
手と影の手


超克
父と息子
窓枠
青年時代のゴダール
光と影と女
光と闇
楽器を弾く人間
全ての歴史
赤旗の群衆
軍人と人々
ランボー
男女と鳩
男性

ブランショ
亡霊達
ドラキュラ
ユートピアの男女
スクリーンを背後にした人間
ゴダール
フィルムを切る作業
光と影
白い花
ベーコンが描いたゴッホ
ゴダールの顔
楽園の花

 

 

『映画史』の後

‪『偽造旅券』(Vrai-faux passeport 2006)は、”ユートピアの旅ー失われた公理を求めて”と題されたポンピドゥー・センターでのゴダール展である。それは、アーチストの間で大きな関心を呼び起こす「ゴダール」のシュールレアリストとしての再定義だった。しかし「世界の創造者」というブルジョァ的世界観を内部崩壊させた挑発的な展示は、ゴダールが国家による「失われた公理」の殺戮を拒むような、至る所微分不可能なゴダール像の提示だった。映画館の庭園化。フィルムの植物化。ポンピドゥー・センターは『偽造旅券』の買い取りを拒んだという。‬

‪『偽造旅券』(Vrai-faux passeport 2006)は、”ユートピアの旅ー失われた公理を求めて”と題されたポンピドゥー・センターでのゴダール展である。それは、アーチストの間で大きな関心を呼び起こす「ゴダール」のシュールレアリストとしての再定義だった。しかし「世界の創造者」というブルジョァ的世界観を内部崩壊させた挑発的な展示は、ゴダールが国家による「失われた公理」の殺戮を拒むような、至る所微分不可能なゴダール像の提示だった。映画館の庭園化。フィルムの植物化。ポンピドゥー・センターは『偽造旅券』の買い取りを拒んだという。‬
マルローは人民戦線だったので映画文化をブルジョアのラングロワに委ねることはできなかったかもしれない。ゴダールは復讐として、ポンピドゥセンターを破壊した。映画は国家を住処にできないとばかり..

 

GIG-IN-DADA

戯画は、おかしみのある絵、または戯れに書かれた絵のこと。落書き、風刺画、漫画、カリカチュアなどと重なる面が多い。「ゴダール『映画史』は面白二十世紀博物館である」はポストモダン的にGIG-IN-DADA

 

『映画史』のスケッチ

線によって、無限に豊かになるものと無限に貧しくなっていくものとの共存において、無限に豊かになるものを描く主観は昨日に無限に貧しくなっていくものを描いた主観の間に区別はないだろう。今日の主観が昨日の客観から切り離されているわけではなくて、無限に関わる意識は連続である。わたしは芸術から考えているが、主客の合一は、西田幾多郎の動と静、一と多の区別を解体していった思想と共に、意義深いものがあるとおもう。これは宇宙における人間の存在の意味を問うた宗教から哲学を構成した思想である。整理し分類して排除する男性原理を批判したポストコロニアリズミの時代に見直されてもいいのではないか。

 

ダブリン時代は、北アイルランドで爆破された教会に、ステンドグラスを送りに行った画家が映画友だった。キリスト教と映画は真実に基づかない。語られる光の美は映画それ自身だ

 

映画の歴史とはなにか

スクリーンに投射されるものは光と闇である。光は闇に先行するが、光と闇は互いに切り離せない。声とスクリーンに向かって自らを投げ出す人間は両者とも闇である。思い出す呟き声と共にスクリーンに精神(亡霊)としての人間の影が現れる

What is the history of film?

What is projected onto the screen is light and darkness. Light precedes darkness, but light and darkness are inseparable from each other. The voice and the human being who throws himself at the screen are both darkness. A shadow of a human spirit (Geist , Spirit) appears on the screen along with a reminiscent murmur. 

Behind the darkness, there are people who watch movies.

モンタージュをたたえましょう

モンタージュはフランス語のMontagerからきていて、組合わせて構成する、の意味です。フランス人に聞くと、作文のことを語りはじめますね。何というか、写真アルバムを整理するときは、効果的な写真の並べ方が大事になりますが、写真と写真との関係が文と文との関係のように成り立つのですね。しかし映画の映像は文以上の何かです。例えば、初期のサイレント映画では、線路に縛られた女性が示された映像のあとに、列車の映像を示せば、言葉の説明なく、女性の命が危ないという意味をわれわれはあっという間に考えるわけです。これを文章で書くとなると簡単にはいきません。しかし言葉は「危険な男」と書けば読みては危険な男を考えます。しかし映像だけではどんなことをしても危険な男を指示できません。最初にトランプの顔を示して、次に「❌」を示しても、それは危険な男を指示したことにはなりません。また逃げる男の映像の後に、追っかける人の映像を示しても、それが「危険な男」であるとは分かりません。「危険な男」は言葉が生み出す観念でしかないのです。他人の家に入った男が何か引き出しを開けているという映像を見ると、観客は捕まるなよと思うのです(笑)。「危険な男」とは思いません。ところが「三十年隠れた男」とマスコミが書くと、みんな公安と警察官になってしまうわけです。
映画の大原則ですが、明確な一つの映像というのは役に立たないのです。そこには相互作用も反発も起きませんから。映画cinématographique においては二つ映像が必要不可欠なのです。

 

映画のショットは部分に宿る全体である。世界は「関係」でできている。映画もショットの関係でできている。しかしモンタージュと呼ばれるものが意味をもつ理由はない

言説家のゴダールは、マラルメが白鳥の翅に全ての言説を書いたように、映像を構成する対角線に全ての言説を書いた。ゴダール「映画史』はフーコ『言葉と物』の映像化である。