フーコは存在しない。語られたフーコだけが存在する

昨日から少しづつフーコ『言葉と物』を読みはじめた。何度も読んできた文を新しく再び読む。どの一文も曖昧だが、本の全体を見つめる視線が信じられないほど綿密に構成されている。見つめてくる本だ

 

私が八年間放浪したアイルランドの哲学者ジョン・スコトウスは真理知として四つのことを考えました。

有から有が生まれる
有から無が生まれる
無から有が生まれる
無から無が生まれる

私が興味があるのは、最後の、「無から無が生まれる」についてです。「動かすもの」でもなければ、「動かされるもの」でもない、<無>があると私は思います。例えば芸術と関わるときは、感化の大きな運動のなかにいますが、しかしそのときも、「動かすもの」でもなければ、「動かされるもの」でもない、分節化できない<無>があるのです。たぶん<無>は宇宙における人間の存在の意味を考えることと深く関わるのではないかと考えたりします。ただしこれは形而上学的知であって、近代の認識論では取り上げらることはないでしょう。
無については、宗教は表象の形式でこれを捉え、芸術は直観の形式で、そして哲学は認識の形式でとらえるのではないかと思います。
いずれにしても、西田は、ジョン・スコトウスの形而上学的思索を紹介して、「無の場所」について語っています。
ヴェラスケスは純粋なイメージのイメージを描いた結果、「無の場所」を表現できたとわたしは思います。
王が立っている場所に人間が立つことになるが、それは絵の中ではない。それは判断の形式が主語にも述語にもないよう「無の場所」のようです。

「不条理が、列挙された物の分けられる場所である <なかで>を不可能にすることによって、列挙を支える<と>を崩壊させてしまう。」(『言葉と物』序より)