ホ〜、世の中でもっともあてにニャらんオペラ論

ホ〜、世の中でもっともあてにニャらんオペラ論

ええー、102年間も、背後のアリーナでオペラをやっているんだそうです。現在、19世紀のヴェルディの「ナヴッコ」をみることの意味について自分なりに考えています。紀元前6世紀のバビロンの捕囚という消滅した過去に題材をとったオペラの意義については正直わからないことが多いのですが、飛躍といわれても仕方ないのですが、ただどうしても自分の中で考えておかなければならないことをとりあえず書き留めておきますと、(読解不可能な)「歎異抄」を読んだ三木清がいう絶対の過去を愛する精神との関係のことがあるのではないでしょうか。三木は、末法の時代にあって、死に切った消滅しきった過去を(直進的時間の「近代」にとって都合がいい風に未来に繋がることが決してない)いわば絶対の過去を愛する精神を言いました。ここから共同体は必ずしも、自らの唯一の拠り所を、(近代の)国家と民族にもとめる必然性がありません。(ヨーロッパでは知識人の戦争協力という問題は常に問われますが、考え方を変える転向それ自身を問題視するような国はあるのでしょうか?) 三木の...ような「転向」した社会主義者にとっては、常に、この道しかないといわれる道の「他」があるはずだったのですがね、どうでしょうか。最後に、前に、トリエステの文化人がダブリンから来たself-imposed exileのジョイスに、カバレリア-ルステイカーナやパリアッチのリアリズム(ベルズモ)を越えるような新しいものを託した可能性について書きましたが、ジョイスはイタリアの統一と独立をもとめる「リソルジメント」を例としたような、ヴェルディの作品で言われる意味とは全く正反対の方向で、ユートピア社会主義者と未来派のアナキストの希望の即して共同体それ自体のために白紙の本を生きるー書くことを行なったのではないか。これが、ほかならない、かれの自分で決めた亡命を構成するプロセスだったのではなかったでしょうか、というようなことを考えることになりました、このオペラの旅は。(トリエステに、ヴェルディの名をとったオペラ劇場があるのですが、「ユリシーズ」には膨大なオペラへの言及がありますね)