河上筆について

幸徳秋水大杉栄は人々とともに生きるために、「第二インター」批判が必要不可欠と考えた。社会主義は国家と民族の枠組みに閉じ込めることがどうして起きるのか?かれらにとっては、市民として自発的に生きることと「白紙の本」を書くことは区別されることはない。思想史の通説がどうであれ、白紙の本を生きる-書くというこの観念性は、小田実が「でもくらていあ」と呼んだものと等価である。これに対して、河上筆は、自己の声だけに依拠する完全な社会主義を、自らの声=意識の内部から内部に即して語るように、予定調和的に閉じ込める内部的読みを望んだのではなかったか?貧困を解決しようとするリアルな社会主義が、河上においては、貧乏の物語に置き換えられていく。今日、河上筆を分析している子安氏の分析の仕方に、解釈改憲の敗北を繰り返すだけで社会主義者としての平和主義の闘い方(例えば25条のために9条を生かせというような主張)がなくなって来たことにたいする大きな危機感と痛烈な批判を読み取ることができるのではないか。