この国の公共放送は、<安倍チャンネルのみなさんのNHK>のまえに、<みなさんを啓蒙していくみなさんのNHK>としてあった

「みなさんのNHKです」

池上線雪ヶ谷駅前のそば屋にはいる。冷麦を待ちながらNHKのニュースをきく。「維新」のどうでもいいハレンチな内輪話、元自衛隊員の出世話、日銀総裁の空ろな独白的景気話がつづく。戦争法案の審議はどうなっているのかと気になっているところ、パッと素早く切り替わった別のお昼の番組で指示された拍手拍手。パチパチパチと、これでもかこれでもかと途切れることがない。嗚呼、やはり、NHK前の集会などは存在しないんだな。あまりにも広い範囲の人々の共通の関心の番組を作り出すところにNHKの問題があるが、これはどの国の公共放送でも解決できない難問に違いない。だけど、「みなさんの」をいう言説がそれを言う主体(NHK)に与える意味はなにであるかを問うことにはまだ意味があるとおもう。兎角、「みなさんの」とは正反対の意味の「安倍チャンの」へ到達してしまったことは、大いなる皮肉である。現在公共放送の組織の中心(経営委員会)に極右翼がいることの決定的な問題をどうするのか?それをストップさせるための、市民のNHK前の抗議行動でもあったのにね。昔は、啓蒙のNHKだった。この国の公共放送は、<安倍チャンネルのみなさんのNHK>のまえに、<みなさんを啓蒙していくみなさんのNHK>としてあったということ。公務員宿舎に帰ってきた官僚たちは小さな白黒テレビをまえに、堅苦しい番組をみて勉強したのである。NHKならではのミニマリズム音楽の使用、江戸時代・鎌倉時代の大河ドラマですら、武満の前衛音楽を使っていた。南総里見八犬伝をみれば、仁智礼儀なんとかなんとかとおせっかいに教えてきたものだ。これはもっと後の時代の放送のことだが、ヨーロッパの国際報道を流した放送に感化されて留学を決めた高校生たちもいたんだがな。みなさんのNHKのみなさんから、NHK前にあつまったわれわれが排除されていますね。だけれどもね、これから問われるべき新たな問題は、市民の排除がいつ終わるのかということ。