概念を展開する
思想史ではなく哲学でもなく、さて「思考のイメージ」とはなにか?「思考のイメージ」から、幸徳秋水・大杉栄と小田実を結ぶ直線のことをおもう。直線といっても、平面上ではなくむしろ曲面上に沿ってひかれる線をかんがえる。基底とは線を構成する単位である。だから線の変化は基底の変化を通じて起きる。ここではとりあえず、不可避性・不可分性・外部性という三つの基底をみれば十分であろう。この場合、不可避性は他者性の概念、不可分性は書記性の概念、そして外部性は脱領域性の概念である。このことを踏まえた上で、秋水の「直接行動論」の徹底した観念性を読むとき、不可避性・不可分性・外部性という諸基底に起きる変化も一緒に読まなければならない。このとき不可分性の概念にフォーカスするとき、大杉の「白紙の本」を生きる倫理的な問題提起の意味があらわれてくるのは、そこに不可避性の概念と外部性の概念の変化が起きているからだ。そして小田の「でもくらていあ」を読むとき、同様に、不可避性・不可分性・外部性という諸基底に起きる変化も一緒に読むことが必要であろう。小田の「ワイワイガヤガヤ、ウロウロウヨウヨ」でいわれる外部性の言説の新しさとはなにか?('選ぶ'民主主義の古代ローマではなく、) '語る'民主主義の古代ギリシャを起源とするデモクラシーの概念に、何があたらしく言われたのだろうか?その意味をかんがえようとするとき、不可避性の概念の変化(国が齎した災害によって孤立させされていく民との連帯)、不可分性の概念の変化 (東アジアの市民との連帯)を読みとる必要がある。そうして、幸徳・大杉から線をひいて小田に至ることは、幸徳・大杉の大正時代と昭和(後期)・平成との間に連続性しか読み取らない思想史と哲学にとっては「脈絡がない」とみえても、思考のイメージにとって成立する話なのである。思考のイメージが運動の現場に即して存在するからであろう。思考のイメージからすれば連続性の神話が破たんしている。永遠不変の言説などない!