作家の問題を構成するのか、それとも作家が住処としている近代の問題を構成するのだろうか?

 

だから言語(ランガージュ)は、透明であるためにのみ実在し、十六世紀に判読すべき言葉(パロール)として言語に厚みをつけ、言語(ランガージュ)を世界の物ともつれあわせた、あの人知れぬ手ごたえを失ってしまっていた。しかもまだそれは、今日われわれが自らに問いかける、あの多様な実存を獲得してはいなかった。(渡辺一民訳)

Il n'existe donc que que pour être transparent; il a perdu cette consistance secrète qui, au XVIe siecles, l'épaississait en une parole à déchiffrer, et l'enchevêtrait avec les choses du monde; il n'a pas encore acquis cette existence multiplie sur laquelle nous nous interrogeons aujourd'hui (Foucault)

<透明な語の存在>というのは、例えば、戯...曲「トランスレーション」の現代アイルランド知識人が批判しているような、消滅しつつあるゲール語であろうか。(ジョイスのテレマコス挿話のなかで皮肉られた)この"神聖な"言葉は、19世紀以前から古代に遡ってゲール語で覆われていたはずだと二十世紀の英語しか喋れない人々の内部に想像された純粋な風景ともつれ合っている。(想像を強いられたというべきかもしれない。) また東アジアの書物について眼を向けてみると、<透明な語の存在>は、ステロタイプ的には、書かれた漢文で覆われた世界の偉大さと結びついているのだけれど、ここから現実化するのが、現代世界の卑小さとのギャップである。例えば漱石が書き綴った夫婦の凡庸な日常会話から覗きみえる卑小さのこと (大正時代には知識人は漢文のリテラシーを失っていくと指摘される)。近代文学の作家というのは、自らが隙間なく構成した世界の意味に深くとらわれているのだが、矛盾していることに、作家ほど、この<透明な語の存在>で覆われた世界の表と分節の秩序 (構造)から逃れ逃げたいとのぞむものは他にいない。恐らくはプルーストの場合にのように、自己自身から脱出するためには、愛した他者の回想に逃避していくことが解決となるはずである。愛する他者を思い出すことは、そこに逃げることの意志が見出すことと等しいからである。しかしまさにこのときに、他者の声を書かなければならないとしたら、書かれた世界から逃れるために、ふたたび、他者の声を書くことは無理ではないだろうか。このように文字を読む人間の問題とは、多様性を包摂する構造の問題を解決するために、再びその構造に依拠することができるかという問題である。そしてこの危機感とともに、作家を繰り返してとらえて離さない問題とは、その他者をいかに指示するかということである。というか、指示することは絶望的に不可能ではないかという問題である。ただしこれは作家の問題を構成するというよりは寧ろ、なにか蝕知できないような、作家が住処としている近代の問題を構成している。厄介なことに、常に過ぎたる実体化をおかす近代の問題とは、文字が事後的に捏造したにすぎない他者 (文字でないもの。起源において同一的に措定された'声')に、 文字に先行した,(近代にとって都合が良くまた近代が自らのために物語られた)、 分節化されない永遠の時間と原風景を与えてしまうことにある。