コンパクトな・・・

問題提起です。思想史が思想史として成り立つためには、思想史はどういう状態を満たさなければならないのでしょうか?講義「二十世紀精神史」の渡辺一民氏がよく口にしていた言葉が、'コンパクト'でした。「コンパクトかね?」「周密かね、そうだろう?」と確かめてきたもの。辞書で'コンパクト'の意味を調べると、(物質が) 緻密な、目の詰んだという状態をいうようです。英英辞書でも調べると、全部必要とされている構成要素が小さな空間にある状態のこと。compact; closely and neatly packed together; dense ( having all the necessary components or features neatly fitted into a small space) 数学の位相空間の説明にちかいですかね。子安宣邦氏の「思想史教室」の場合も、文章にしたら数行で言われていたことをできるだけ理解するためには、(たとえば「思想史家としては」という言い方)、わずかな言葉が占めるこの小さな空間に、(三十冊ぐらい執筆なさったとのこと,) 二十冊分の本の言葉たちをコンパクトに束ねることがなければと思います。私は知識も思考も絶対的に足りませんが、まあそれでも、この四年間を通じて、思想史といわれるものが思考として成り立つためにどんな状態を満たさなければならないのかということだけは、まだまだでありますが、以前と比べてより明確に掴んできたように思います。思想というのは、なにかとの関係でしかみえてこないこと、この場合のなにかとは思想史という全体のことなのだが。どの思想家の場合も思想それ自身の言葉の中から内部に沿ってなにかが解釈上明らかになっても、そのなにかが思想とその思想の外部との関係になにか新しく付け加えることはできません。一義的に明確に定義されること、これは思想史のゲームには役に立たないというか