柳田国男論序文(2013年) ー帝国の思想家・柄谷行人の秩序オプチミズム

柳田国男論序文(2013年) ー帝国の思想家・柄谷行人の秩序オプチミズム

1986年に書かれた柳田国男論を読むと、柄谷行人にとっては、「柳田は江戸時代の注釈学者の姿勢と近似するのである」「柳田は儒学者徂徠に近かった」ことが強調される。なぜか?▼それは柄谷が柳田の文学者としてだけでなく政治家としてあった「公」の立場に注目するからである。文学者から柳田をみてしまうと、かれの内面を拒んだ政治を見失ってしまうのだ。▼柄谷はいう。「柳田の民俗学的研究が組織的に拡大した大正期に、彼のもとに参加した折口信夫のような人々は、この意味で柳田と決定的に断絶していたのである。柳田において、「儒教」は「もの」のように生きている。・・・柳田の場合、道=政治であるがゆえに、「固有信仰」はまた政策・制度の問題であって、彼はそれについて一貫して実践的に発言し行動し続けたのである」。▼だがここでいわれる「固有信仰」の意味はなにか?柄谷はつぎのように説明していた。「柳田のいう日本人の「固有信仰」は、いわば'事実'の問題にすぎなかった。基本的に、それは先祖信仰の一種であって、仏教や神...道や儒教のような「宗教」と同列におかれるものではない。ただ、柳田は、そのような宗教の背後に日本人のなかで生き続けているものを、固有信仰と呼んだのである。・・・・固有信仰は、個人の内面的な問題ではなく、また原始的心性でもなくて、日本人によって生きられてきた「事実」の問題であった」。▼これを読んでも柄谷が「固有信仰」の概念で何を言おうとしていたのかわからないが、なにか、それは方法としての固有信仰であり、ナショナルなものを相対化していく内面化されない政治としての民俗学、つまり、柳田の方法としての民俗学だからこそがとらえることのできたギリギリ脱民俗学的な概念なのだろう。そうして、明治の近代国家に生きた柳田国男をあえて、近代国家を知らずまた民族主義とは無関係だった江戸の荻生徂徠に重ねてとらえることの意味があるのだ。▼ところが2013年柳田国男論の序文では、「固有信仰」でかたられていたものが一気に実体化されることになる。そこで一つの日本が可能であるかのごとき言説が再び語られている。そこで、80年代に柄谷が柳田にみいだした方法としての民俗学とは正反対の方向から、柄谷は柳田の一国民俗学としてのアンチ遊動的なあり方を擁護することになった。それはなぜか?柄谷によるとこうである。「柳田が「山人」と呼ぶのは、狩猟採集民である。・・・柳田はその後、山人あるいは先住民を無視して、「一国民俗学」をいようになったといわれている。しかし、それは満州事変(1931年)の後であり、日本が多数の民族を含む満州帝国、あるいは、大東亜共栄圏を目指した時期である、この時期の日本では、いわばノマド的であることが奨励された。柳田はそれを拒否して、一国民俗学を唱えたのである。それは柳田が「山人」を拒否したことを意味しない。1930年代の柳田は「山人」を、固有信仰(先祖信仰の祖型)に見出そうとしたのである。」。「1980年代に流行したのが、遊牧民的タイプの遊動論だということである。実際、ドゥルーズ&ガタリがいうノマドロジーは、遊牧民に基づいている。それは脱領土的で闘争的である。それがラディカルに見えるが、資本・国家にとっても好ましいものである。したがって、それは90年代には、新自由主義イデオロギーに取り込まれた」。▼そうして柳田のことをあらためて考んがえるようになったのは、「世界史の構造」(2010年)を出版した後、そこで十分に書き足りなかったことを再考しはじめたときだという。そうならば柳田国男論の序文(2013年)は「世界史の構造」の続編の一部をなすのであり、その意味で、「帝国の構造」(2015年)のなかに書かれたかもしれなかった文であろう。そこで柄谷が帝国の正当性を公然と言うことになった点を考えると、「世界共和国」(2006)は、「天なる帝国よ、内なる固有信仰よ」へと命がけの飛躍を遂げたことになったということなのか?しかし文化多元主義のためにだけではなく政治多元主義のためにー現在は政治多元主義のほうが大事になってきたー複数の日本、複数の日本語のために努力してきた'穴あけ'の多様化の努力が有効でなくなったといきなり勝手にきめつけて、統整的理念といえるのかわからないが、戦略的に強調される「一国」で意味されるのものが基底的深層としての'一つの日本'だとしたら、それは、ほかならない、政治多元主義を抑圧する秩序オプチミズムというものではなかろうか?