動乱の時代の秩序オプティシズム?

動乱の時代の秩序オプティシズム?

 フーコとの関係でドゥルーズDeleuzeをみてきた私にとって、立ち寄った本屋さんでドゥルーズの特集とかインタビューのCDとかをみて、こういう風に、ドゥルーズだけを前面に出す(売る?)というのは、なにかヤバイというか、違う感じがしたのは、私だけでしょうか?まあざっというと、フーコは「外部の思考」が大切だったしこれからはもっと大事なんだと言いました。▼そうすると、時代遅れとなった内部の思考を新しく再構成する必要が哲学的に出てきました。それがドゥルーズの思弁的な仕事だと私は理解しています。彼なりに、ライプニッツバロック的な考え方に沿って、しかし、そこで、外部との関係を抜きにした内部の思考はあり得ないというような、'内包量'の意味が哲学的に新しく言われることになりました。▼だが考えてみるとこれは非常に危うく難しい仕事です。哲学史に位置を占めるような、こういう思弁的な再定義というのは、ドゥルーズの仕事がフーコとの関係で意味をはじめてもつものだということが忘れさせるものです。▼たとえばサイードがフーコの思想には、権力がいかにあるのかということに関心があっても、権力に対していかに抵抗するかについてはあまりそれほど関心がないと痛烈に批判したのですが、じつはこの問題は、フーコを哲学的に再構成していくドゥルーズの仕事の問題にも言えます。▼ドゥルーズは強度をテンソルだとも言っていますから、'内包量'といっても'<一的>多様体といっても同じなのですが、それが反権力的な多様性を意味するのではなく、権力側に行く'一的なもの'を意味するようになってきました。(Deleuzeノマド論に反論し始めた柄谷以降、これがはっきりしてきました。柳田国男論序文を批判した一文のなかで書きました。)▼ '一的なもの'といえば、それは80年代以前は将軍のスターリニズムのことでしたし、21世紀の現在は'帝国'という新しく解釈されたスターリニズム(ツアーリズム的一国社会主義というか)ですね。売れる本が良い本だと露骨に考えるようになったといわれる出版資本の要求もあるのでしょうけれど、ドゥルーズを再び語る若い思想家たちに秩序オプティシズムというか、好ましく中立にみえてしかしギリギリなにかファシズムの空気で考えてはいないだろうかと直観的に憂慮している次第です。▼それにしても、知識を重んじるネオリベの時代のファシズムは、過去の集中型一元主義と違って、一見知的にみえる多元主義に支えられていることを考えさせます。ニッポン'ふらんす思想'に限らず、世界的に、そういうポストモダンのモダニズム化という非常に気持ち悪い言説が着々と広がっていることの問題はなにか?新たに問われるべきは、動乱の時代の秩序オプティシズムとはなにかということ。