丸山真男を読む

カール・シュミットのいう中性国家Ein neutraler Staatとは、 丸山真男の解説によると、真理とか道徳とかの内容的価値に関しては中立的立場をとり、そうした価値の選択と判断はもっぱら他の社会的集団(たとえば教会)又は個人の良心に委ね、国家主権の基礎はかかる内容的価値から捨象された純粋に形式的な法機構の上に置いてあるという。アヘン戦争を契機にヨーロッパ帝国主義が押し寄せた19世紀、東アジアの国々はいかに近代国家として自立していくかという課題に直面したが、そのような中性国家ではあり得なかったと子安氏はいう。日本の場合は、植民地化を避けるために、結集力をもった国民国家の形成に向かうしかなかったとされた。そして日本が帝国日本になっていくときに(大正時代)、天皇制国家の問題が出てきた。日本は天皇制国家をやめるべきだった。しかし日本は総力戦をたたかいぬくような国家に向かうのである。ここに決定的な間違いがあった。日本ファシズム満州事変から始まったのである。日本ファシズムには「我が闘争」がないと丸山はいうが、名を口にするだけでもおぞましいとされた北一輝の本があった。大川周明の本も。(北はかれは彼なりの天皇機関説をもち国体を徹底的に批判した社会主義者。「日本国民は万世一系の一語に頭蓋骨を殴打されことごとく白痴となる」と万世一系を批判した。皇国史観の学者やそれをかいた教科書のようには国体ファシズムを持ち上げる言葉を北も大川も述べてはいない。)ここで問題にしたいのは、「我が闘争」の有る無しを問うような丸山真男の対比的分析視覚のことだ。「我が闘争」をもたないファシズム、すなわち丸山の「超国家主義」という概念はこのように「思想構造及至心理的基礎」の分析を通じて構成されるのである。昭和ファシズムがいつ始まり誰が始めたかというリアルな問題が、心情的に、「内なる天皇」というわれわれの思考様式と責任に還元されてしまう。だが丸山のいう日本的特異型が日本の「古層」にまで実体化されてしまうに至るとき、丸山を反知性主義と呼ばずしてなにを反知性主義と呼ぶのか!?

 

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