バレンボイムのブルックナー

演奏中に弦がきれてしまうのを初めて見ました。ブルックナーのマッチョ主義は、ワーグナー流の少女の心をもったへラクレイスの彷徨える都会的にデガダンスとは違って、私の印象の中では、あたかも夢の楽園の花を目覚めたらそれを手にしていたというような、そして中世の建築の輪郭をおもわる直線的に進行する(と私には感じられる)神秘的の救済をともなうようです。ロンドンでベートベンピアノ全曲演奏をしたバレンボイムの姿はホール後部座席からいつも遠くから見ていました。二週間の演奏活動と聴衆の前にパレスチナ問題を語るというスケジュールで、そのときは亡きサィードを連れてきたような衝撃がありました。今回間近で初めてみたかれの指揮ぶりは、嗚呼なんと形容しようか、街頭でユダヤ系の知的な人々が活発に議論するときの創造的に世界をかき回す如き(と私にはみえた)身振りのようでした。ブルックナーの 'ワーグナー'は当時は不評で、観客のほとんどが第二楽章の前に帰ってしまい残ったのがわずか50名足らずでしたが、そのなかに若いマーラーがちゃんといたそうです。音楽理論のことはわかりませんが、マーラーのあの自己のエピソードをかいたような交響曲というのは、ブルックナーを介してでなければ出てこなかったということでしょうか、興味深い音楽史です。来週はいよいよ8番を。朝比奈のブルックナーも聴いて研究したとのこと。「ワーグナーに限らず、大戦中、さまざまな政治的メッセージをまぶされてしまった不幸な芸術は、どの国にもある。そうした思惑から解放し、純粋に新しい耳で聴き直す動きを若い世代に導いてもらいたい。」(バレンボイム)