ハーバート・サイモンの本 (1982年の講演録をまとめたもの) ー 佐々木恒男・吉原正彦訳

ハーバート・サイモンの本 (1982年の講演録をまとめたもの)

佐々木恒男・吉原正彦訳

 

 

・人間は世界全体を見ることはなく、自分たちの住んでいる世界のごく一部しか見ない。そして彼らの世界のその部分についてあらゆる種類の合理化をでっちあげることができるが、ほとんどの場合、それはその部分の重要性を誇張するような方向ででっちあげるのである。原子力の例について、もう少し突っ込んだ議論をしてみよう。というのは、それはこのような現象の多くの優れた例証を与えてくれるからである。十年以上も前に、リバーモア研究所の二人の告発者が、原子力発電所付近の放射線が及ぼす健康上の危険が、考えられていたよりも非常に高いことを示すとされるある統計を提示したとき、原子力の関係している人たちがとった最初の反応は、一致団結することであった。ほとんど例外なく、彼らは、「このことをもっと詳しく調査しよう。事実を発見するために、完璧な第一級の調査委員会を設立しよう」とは言わなかった。それどころか、ほとんど全員の反応は、「どうして、そういう無責任な奴らがベラベラしゃべっているのか」ということであった。

・私は当時、大...統領科学諮問委員会のメンバーとしてこれらの出来事に比較的近いところにいたが、このような社会全体の関心事の深さに対する「部内者」の無神経さに、素直にいって驚いたのを思い出す。「部内者」の多くは私の友人や知人で、彼らは高潔な品性の持主であり、私はどのような形にせよ彼らの節操のなさを疑ったことはなかった。彼らに事実を公明正大に見ることの必要性を見失わせたものは、核エネルギーの発展にたずさわっていた数年の間に彼らが獲得していた「知識」であった。つまりそれは、この科学技術は人類にとっての恩恵であって、新しい種類の生産力を切り拓き、枯渇しうる化石燃料への依存からわれわれを解放し、そしてかつて予見されたこともなく、とりあつかわれたこともなかった健康上のどのような異常な危険もよもや引き起こしはしない、という確信であった。彼らのかかわり合いの深さが、証拠が彼らの味方をしているか否かを、客観的に考えさせるのを妨げたのである。

・ある問題が大いに議論の的になるときーそれが不確実性と対立する価値とによって彩られているときはー専門的な意見は極めて手に入れにくく、そして専門家を正当化することはもはや容易なことではない。こうした状況では、われわれは賛成者の側の専門家と反対者の側の専門家がいるということを発見する。われわれはこのような問題を特定の専門家集団に委ねることによっては解決することはできない。せいぜいのところ、われわれはその論争を当事者主義の訴訟手続に変え、そこでわれわれ素人は専門家たちの意見に耳を傾けるが、しかし、彼らのうちのどちらが正しいかを判断しなければならない」

・理性は、それだけを取り上げてみれば、器械である。それはわれわれの最終目標を選ぶことはできないし、追及すべきなのはどのような最終目標であるかをめぐっての純然たる対立をわれわれのために調停することもできないーわれわれは他の何らかの方法で、これらの問題を解決しなければならない。理性が行うことのできるすべてのこと、それは合意に達した目標をより能率的に達成しようとするわれわれを助けることである。しかし、この点に関しては、少なくともわれわれはもっとよいものを得ている。ある妥当な程度にまで、人間の理性の力はそれら自身を、とくに同時的な諸関係を処理する能力を発展させてきており、(・・・) われわれは、自らの行為の結果を予測し、新たな選択を立てる能力を発達させたし、引き続き発達させている。これらの発達をもってしても、われわれは依然として、世界の複雑さのすべてを取り扱うことができるにはほど遠い状態にある。しかし、世界はー幸いにも、現代の世界でさえーほとんど空っぽであり、ほとんどの事柄は他の事柄と弱く関係づけられているにすぎず、そして人間の理性がうまく対処しなければならないのは、このような世界とだけである。