21世紀の未来を思考するためには17世紀まで遡って考えることが必要となるだろう。西欧の知だってそうしてきたのだから、かれらは常に16世紀17世紀からかんがえる

伊藤仁斎など有名な儒者たちが現れるのは17世紀初頭であった。宋明儒学の体系という漢字文化圏の東アジア思想の普遍的な思想体系(学問と知識の体系)を通じて、東アジア社会が自らを位置づけていく。この宋明儒学の体系を学ぶことによって(受容することによって)、江戸思想を、普遍的な言説にすることができた。そうして武士が知識層となったのは、1800年以降である。仁斎と同様に武士ではなかったが、本居宣長(1730ー1801)は34歳のときに、「歌の本体は政治をたすくるためにもあらず、身をおさむる為にもあらず、ただ心に思ふ事をいふより外なし」と言っている。この宣長によって、はじめて中国文明からの自立が言われる。武士の知識層があらわれるまえに、非武士の知識人が、(政治を直に問うことは危険であったから文化の側から)、武士たちが依拠していた文明からの、(方法論的に構築していく宣長なりに想像された)共同体の自立の意味を問題提起したのである。あらためて、自立とはなにか?哲学的にいって、それは、互いに多種多様な力が同時に働く状態をいうのであろう。ここから、思想史がもっと意味あるヴィジオンを考えることが可能だろうか、このことを考えないわけにはいかない。今日の沖縄を軍事植民地として扱い続ける日米両政府の姿勢の根本的間違いという問題から切り離しては、市民たちの自立の意味をかんがえることができなくなったとおもう。21世紀において、沖縄と民主台湾から、東アジアの社会が、再構成された学問と知識の体系をともなって、自らを位置づけていくにちがいないが、このことがすでにはじまっていることが、子安宣邦「帝国か民主か」(社会評論社2015)を読むとよくわかる。これからは、21世紀の未来を思考するためには、下級武士たちに担われた近代化の問題を含めて(イスラムの近代化と比べると、過去の切り離しは徹底していたが、漱石が嘆いたようにヨーロッパ化は底の浅いものであった。他国と同様に西欧に圧倒された中での移行であったが、江戸時代の翻訳の蓄積が移行をスムーズにした)、17世紀まで遡って考えることが必要となるだろう。西欧の知だってそうしてきたのだから、かれらは明日を考えるとき常に16世紀17世紀からかんがえるよ、とくにイスラムを排除してはじめて成り立つことができたヨーロッパ近代の問題とらえるということの重要性が今日ほど自覚されたことはなかったのではあるまいか。