その時代全体から逃避する亡命の思想、あるいは内部亡命的に隠棲することがとりうる政治的態度の思想、「賢者は乱世を去る」と毅然と言いうる自立的な言説者の思想

フーコは権 力は 国家 装 置 などのなかだけに局 在するのではなく、あらゆる関係 の中に遍 在していると指摘した。「実際、社会は処罰システムによって合法性と違法性のゲームを組織し、整備し、政治的経済的に有益なものにしようとしているのであって、社会はこの二重の鍵盤をとてもうまくプレイしているのです。まさにここに政治運動のターゲットが位置づけられるべきであるように私には思われます。」(フーコ)。ここで、例えば、文化大革命期のまるで収容所の内部での手口が白日の下へと突如現れ出たかのような紅衛兵の方法、即ち人に過ちを認めさせたり再教育したり、面目を失わせるようにしたり、笑いものにした光景がいわれていることをフーコbotであらためて読み知った。このような文化大革命の社会と天安門前抗議者を迫害した官僚資本主義の社会とは連続しているとあえてかんがえてみようというのである。この二つの社会は、処罰システムによって合法性と違法性のゲームを組織し、整備し、政治的経済的に有益なものにしようとしている点では、類似しあっている。ところで、恥ずべきことに、日本を代表する知識人たちの中には処罰システムを文化論的に内在性の言説によって正当化する者がいるが、これはなにを意味するのかという点もここで問わずにはおれない。その時代全体から逃避する亡命の思想、あるいは内部亡命的に隠棲することがとりうる政治的態度の思想、「賢者は乱世を去る」と毅然と言いうる自立的な言説者の思想が根本的にないことを意味している。このことこそが、どんな国境も越えて共犯的に権力があらゆる関係 の中に遍 在 していることを意味している、とわたしはかんがえる。

 
 
「08 憲章」2008年12月10日発表
一、前置き
今年は中国立憲百年、「世界人権宣言」公布60周年、「民主の壁」誕生30周年であり、中国政府の「市民的および政治的権利に関する国際規約署名10周年である。長期にわたる人権への災禍に対する、艱難に満ち、曲折した願いの道程を経て、覚醒した中国の公民は、自由・平等・人権が人類共通の普遍的価値であり、民主・共和・憲政が現代政治の基礎的な制度の枠組みであることを、日増しにはっきりと認識しつつある。これらの普遍的価値と基本的な政治制度の枠組みを引き離した「現代化」は、人間の権利を剥奪し、人間性を堕落させ、人間の尊厳を踏みにじる災禍の過程である。二十一世紀の中国がどのような方向に進むのか、このような権威主義的統治による「現代化」を継続するのか?それは,回避する余地のない選択である。...
十九世紀半ばの歴史の急激な変化は、中国の伝統的な専制制度の腐敗を...暴露し、中華の大地における「数千年来かつてないほどの大変動」の序幕を開いた。洋務運動は、器のレベルでの改良を追求しただけで、甲午戦争(日清戦争)での敗北は、体制が時代遅れであることを再び暴露した。戊戊の変法は、制度面での革新に触れたが、結局は、頑固派の残酷な鎮圧によって失敗に帰した。辛亥革命、表面的には、2000年あまり続いた皇権制度を埋葬して、アジアで最初の共和国を建国した。しかし、当時の内憂外患という特定の歴史的条件に制約され、共和の政体は、一時的現象で終わり、専制主義は捲土重来したのである。器の模倣と制度の更新の失敗は、国民に文化的病根に対する省察を促し、ついに「科学と民主」を旗に掲げた「五四」新文化運動が起こったが、内戦の頻発と外敵の侵入により、中国政府の民主化の過程は、中断を強いられた。抗日戦線勝利後の中国は、再び憲政の歩みをしかし国共内戦の結果は、中国を現代における全体主義の深淵に陥れた。1949年に建国された「新中国」は、名義上は「人民共和国」だが、実質的には「党の天下」であった。政権政党は、あらゆる政治・経済・社会資源を独占し、反右派闘争、大躍進、文化大革命、六四事件および、民間の宗教活動や合法的な権利擁護の運動の抑圧などの一連の人権の災禍を引き起こし、数千万人の生命を奪う結果となり、国民と国家は、いずれも大きな代価を支払わされた。
二十世紀後期の「改革開放」は、中国を毛沢東時代の普遍的な貧困と絶対的な全体主義から抜け出させ、民間の富と民衆の生活水準は、大幅に向上し、個人の経済的自由と社会的権利は、部分的に回復し、市民社会は、成長し始め、民間における人権と政治的自由を求める叫びは、日増しに高まっている。為政者も、市場化した私有化に向かう経済改革を進めると同時に、人権の拒絶から、しだいに人権を承認するように変わってきた。中国政府は、1997年と1998年に、それぞれ二つの重要な国際人権条約に署名し、全国人民代表大会は、2004年の憲法改正で「人権の尊重」を憲法に書き入れ、今年はまた「国家人権行動計画」の制定と遂行を承認した。しかし、これらの政治的進歩は、現在に至るまで、その殆どが紙の上に留まっている。法律はあっても法治はなく、憲法はあっても憲政はなく、依然として誰もが認める政治の現実があるのだ。
執政集団が、引き続き、権威主義統治を維持し、政治的変革を拒むことで、官僚の腐敗を招き、法治は実現し難くなり、人権は明らかにされず、道徳は失われ、社会は二極分化し、経済は不均衡な発展をし、自然環境と人文環境は二十に破壊され、公民の自由・財産・幸福追求の権利は、制度的保障を得られず、各種の社会矛盾が絶え間なく蓄積され、不満は高まり続けて、特に官民対立の激化と群衆の突発事件の激増は、まさに壊滅的な制御不能の趨勢をみせており、現体制の落伍はすでに改めざるを得ない事態にまで至っている。
 
 
本多 敬さんの写真