フーコとはだれか、なにを言ったのか?

本多 敬さんの写真
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ボッシュ「阿呆船」に描かれた人々がどこへ行ったかということがどうしても気になって仕方がない。この人たちはどこへ消えて再びどこに現れたのか?「阿呆船」はヨーロッパ人に大きなインスピレーションを与えるのは、それが亡命とか、あるいは内部亡命的に隠棲することがとりうる政治的態度としてヨーロッパの伝統の中にあるからなのだ。ここから、「阿呆船」の人々はスペイン帝国に上陸したと想像するのも自由だ。つまりユダヤ人の歴史である。ベラスケスは自立的な言説者であろうとした自らを描くときに、己がどこから来たのかという痕跡ーモデルなのかコピーなのか分からないような決定的な多義性ーを示す必要があった。宮廷の内部とはいえ、われわれからは裏側しか見えないそのキャンバスは、表象の全部を消し去った真白だったと思う。整理・分類され表(タブロー)にされるのを拒んだのがユダヤ人の歴史だったから。こういうことは、フーコの「狂気の歴史」「言葉と物」巻頭の挿絵をみればわかることだ。「阿呆船」の他者たちは近代にどんな扱いを受けることになったのかも「監獄の誕生」挿絵に示される(「少年少女の敏速な矯正のための蒸気機械」18世紀版画)。「阿呆船」の他者たちのなかには<地図製作者>が存在していた。それがフーコである。はじめて地理学者を描いたのはフェルメールであるが、言説地図をはじめて書いたのはフーコであった。そしてフーコは留まらない。構造主義の人間中心主義への還元を批判してきたそれまでの批判哲学の領域とは全く異なる方向へ行く。古典ギリシャに遡り、自己の身体的配慮についての問題を考えていった。自己の身体的配慮は、公の支配を超えた、もっと言うと、私と公を超えた、儒者たちならば「天」と呼ぶであろうものに通じると言いたかったのか?そうして人間を語るときフーコの保守化が言われたがそうではあるまい。フーコにおいてどの領域が始めをなしどの領域が終わりをなすのかということはだれも指示することは不可能だ。そもそもそんな必要もないのだからね

 
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