貝原益軒(1630〜1630)とはだれか。その「理的世界」の再構成とは何であったか。大阪は自ら立つために、東京の近代とは別の可能性をもっていた、経験知を重視した懐徳堂の江戸時代に、物の中心として知のネットワーク(空間の思想史)を担っていた自らの歴史を見直すことに意味があるのはなぜか?

 

 

 貝原益軒(1630〜1630)とはだれか。その「理的世界」の再構成とは何であったか。大阪は自ら立つために、東京の近代とは別の可能性をもっていた、経験知を重視した懐徳堂の江戸時代に、物の中心として知のネットワーク(空間の思想史)を担っていた自らの歴史を見直すことに意味があるのはなぜか?『養生訓』の著者は、江戸時代、世に並ぶもののない博学知識の学者として知られていたという。現在は、いわゆる広く知るという態度が軽蔑されている時代だから("広く浅く"知るは公務員と試験の奥義なりと父は私に繰り返したものだった!)、この軽蔑が、博く学ぶことの意味が何であるかを真剣に考えさせようとはしない理由かもしれないけれど、私が興味をもつのは、博学的知識と公共的知識、この両者は貝原益軒において互いに切り離されることなく一体となっていたというその言説の形成の仕方である。この意味で、「博く知り、良く生きること」を初めて語ったのは益軒である。自分だけではなく人々は博く学ぶことができ、寺社の外でも知識を持つことができるのだという。子安宣邦氏によると、「益軒を益軒たらしめるのは...、その博学知識を国字でもって記し、多くの著述によって世人に博く伝えていったことにある。17世紀後期の日本近世社会において益軒によって初めて倫理・習俗・歴史・風土・産業・養生・本草など〈人の世の事と物〉とをめぐる知識は、世人に共有される公共的な知識となっていったのである。」

この前提として、1600年代に公共的な知識として朱子学が成り立つ。西欧のスコラ学でもアジアの朱子学でも、(人間の存在根拠を説明し尽くす)宇宙論的存在論の大いなる知にたいしては、近世(近代初期)において、同時代的に、それを脱構築化していくような自立的な理念性の発見の方向(カント、仁斎)が出てくるが、益軒の場合は、この方向に沿いながら、存在についての大いなる語りを否定するというよりはそれとの屈性した?付かず離れずのこだわりをもって、リアルな経験知を整序し展開するだけでなく、形而上学の影を背負いながら、(闇斎の正統的道学の成立に結実したような朱子学の禁欲的内部化の方向とは異なる所から)、修正主義的にそれを語るのである。益軒は「理的世界」を再構成してみせたのである。益軒の思想のキーワードに、「物」の概念がある。それは、近代の言説がとらえる「物」の意味とは違う。益軒の「物」とは自分以外の他者を指示しているからだ。そこではあたかも「人」の系列と「物」の系列とが重なり合っているのが重要だ。「禽獣は己を愛して、物を愛することを知らず。是れ不仁に由れり。故に礼なく義なきは禽獣の道なり。人道は則ち然らず。己を愛して又人を愛す。是れを以て礼有り義有り。是れ人と禽獣の由て分かるえう所なり。人苟し己に便にして礼なく、己れに利して義なくんば禽獣と何ぞ異ならんや。」博学的知識と公共的知識、この両者は貝原益軒において互いに切り離されることなく一体となっていたということである。「博く知り、良く生きること」を初めて語ったのは益軒であったというその意味は、自分だけではなく人々は博く学ぶことができる、そして、ここに「物」が存在する。つまり、益軒という儒者の博学の性格は、博く「物」に及ぶ智(徳)をもつこと、このことが同時に、愛(仁)をもつことになるといわれるのである。ここに、近代の知が忘れた「物」に及ぶ智が語られていたのである。益軒こそは近世の知識革命の遂行者というべき存在であるゆえんであろう。市民大学講座の最後に問題提起されたのは、江戸時代には三つの中心があったということ(物の中心の大阪、知の中心の京都、政治の中心の江戸)、そしてこの認識から、現在の大阪は自ら立つために、東京の近代とは別の可能性をもっていた、懐徳堂の江戸時代に、物の中心として知のネットワーク(空間の思想史)を担っていた自らの歴史を見直すべきかということが論じられた。このことが、国家の近代の昭和思想から脱出するためにも、江戸思想の貝原益軒の智を語ること意味があると私は新たに考えることになった。(昭和思想史研究会 本多)