「憲法の無意識」は本当にそれほど憲法なのか?

憲法の無意識」は本当にそれほど憲法なのか?

 

ヨーロッパではあり得ないことだが、この日本だけで社会民主主義の政党が事実上消滅してしまうのはなぜか?台湾で起きているような市民の50万のデモも、この国では10万を超えることができず国会を取り囲むことができないのはなぜか?原発再稼働の現在、「日本の市民運動は必ず挫折する」というジンクスが3.11以降も証明されようとしている。こういうことは全部、大正時代に国家権力が未来の市民たちを立ち上がらせないようにと大杉栄のような思想家たちの自発性の精神の根を摘みとってしまったことと深く関係しているのではないか。はっきりとこれを認識することがなければ、21世紀の民主主義の危機を解決できないのではあるまいか。「大正」を読むことはなにを意味するか。東アジアの現在を読むことを含めて、現在の生活者たちに、互いに連関し合う総体として全体的に考える普遍的な視点を与えてくれるのが、子安宣邦氏の大正論である。この子安氏の大正論の書評が東京新聞毎日新聞に掲載されたことは当然である。しかしやはり相変わらず、朝日新聞の紙面に、党派的に振...る舞う柄谷行人が書評欄をコントロールしている限り、子安氏の大正論の書評が出ることはないという気がするのだ。この柄谷行人は批判的言説家というよりは予言者であるということを検証するときが来たようにおもう。かれの「憲法の無意識」はいかにも日本人っぽい。「憲法の無意識」は本当にそれほど憲法なのか?だがそれよりも、いま私は「憲法の恥」という本をぜひとも読みたいという気持ちである。外交上仕方なく伊勢神宮に参いることを強いられたG7首脳達は彼らの信教の自由が爆撃されていた真実すら言われないのだから、天安門前広場の劉暁波たちの抗議活動に対する弾圧だけでなく、この言論の自由に行われた弾圧を忘却することの問題が柄谷の口から聞かれることはないだろう。本のタイトルに憲法の字がはいるほど理論面で憲法を守っている饒舌な日本知識人が、こうした信教の自由と言論の自由にたいする爆撃ー9条への爆撃も含めてーがまるで無かったかのように一言も言及しようとしないことが、まさに、憲法の恥なのである。言説として成り立たせてそれを流通することは柄谷の大きな力によるものだが、しかしこの大きな力ももしそこに民主主義の批判精神をともなうことがなければ、「世界史の構造」「帝国の構造」も「憲法の無意識」も、「美しい日本」のー靖国問題のような政治問題を、(まさに憲法が警告しているように)文化論としてあつかってはならないものを、文化論に還元していくー原理主義的な立ち位置とちがわないのである。 

柄谷行人に問う

―あなたが頼りにしているまさに「文化」から起きてきた戦前ファシズムの体系的進行のことを知らないの?

ジジェクがロンドンの聴衆に言っていた言葉を時々思い出すのだけれど、自分が生きているこの社会はこんなに生きづらいのかという疎外の原因を常に明らかにしていく責任が知識人にある、と。ここから問題解決がはじまるという。ところが、柄谷行人が、無意識に根ざした日本人の「文化」簡単に変わらないから、安倍の9条改憲は挫折すると予言するのはまるで、目をつぶっていれば自ずと世の中の災いが過ぎ去っていきますから心をただして静かに待っていましょうというような、なーんか、いかにも日本っぽい発想なんだよね。そういう発想のもとで、結局ファシズムには有利な方向で、ますます消極的になっていくだけだよ。もっとも柄谷が言うには日本はずっとファシズムだからファシズムのことを心配しなくていいというんだけどね。でもこういう言い方が、かつて丸山真男戦争責任のあったファシスト達を見逃したように、柄谷が頼りにしているまさに「文化」から起きてくるファシズムの体系的進行ー安保法制による軍事的国家化、伊勢・靖国国家神道的復活、教育内容についての国家的介入、隠微に進められる言論統制、国家の軍事化ーを見逃してしまうことにならないだろうか?