今日においてもっとも問題とせざるを得ない「知」の権力と監禁とはなにか ?

 「五月革命以降の日々の中で、フーコも急速に政治的活動を活発化させる。それに伴い、フーコの仕事を貫く主題として「権力」の問題が全面に押し出されてきた。権力は「知」と共謀しながら、いかに規律社会に張り巡らせ、いかに作動してきたのか」

 日本「フランス思想」が自負する言葉に、「同時代的」というのがあるが、同時代的に、思想の大事な本が翻訳されてきたにもかかわらず、残念ながら、かれらの解説を読んでもフーコーの思想の衝撃について考えることができないと不満に感じるのは、主に私の読解能力に帰せられる問題だとおもうが、本気で、(彼らが紹介する)フーコーから、彼ら自身が属する日本の権力と監禁の問題を考えてみようとはしないということもあるのではないか。丸山真男が日本ファシズムの首謀者たちを見逃したような間違いを繰り返さないように、日本「フランス現代思想」に、今日考えなければならない問題をみてもらいたいとおもう。今日もっとも問題とせざるを得ない権力と監禁の問題は何か、どこにあるのか?それは、帝国への道か民主の道かという問題に尽きるとおもう。ここで、最初に検討したいとおもう、民主の道とはなにか?端的に言ってそれは「人の道」のことだ。この「人の道」は東アジア漢字文化圏の理念性と結びついていた。ここで重要なことは、「人の道」に、自らを代表する政治を生きる=書くことを望む人々が拠り所とするような経験知があったということだ。こうしたことをふまえれば、東アジア漢字文化圏の共同体とは、唯一の普遍主義であったマルクス-レーニン主義の道を脱構築する理念性をなすものとして期待された理念であったことが理解されるだろう。つまりヘーゲルマルクス主義の一元性の普遍主義に依存しふたたびここに戻るのではなく、東アジア漢字文化圏という多様性としての普遍主義が理念的に構成されたのである。ところがそもそも東アジアという言葉からして問題があったと指摘される。実際に毛主義ー文化大革命の権力-監禁システムが官僚資本主義の新儒教において再生するとき、「人の道」が自立的に定位した東アジア漢字文化圏の理念の再包摂が起きてしまうのであった。市民たちのOWSの時代に自発的に起きてきた民主的抗議の声に背を向けた、権力と監禁へのノスタルジーをもつかのようにみえるイデオローグたち。まさかとおもうが、しかし自らこそが正しいオリジナルをもつような特権的な語り口で世界帝国の朱子学的教説の高みから、「天命」なき暴動であるというレッテル張りするという有様ではないか。それは、<六四>の日付を、対抗メディアのネット世界に現われることを監視し最終的にそれを忘却させるようと企てる権力の作用と関係があるというふうにどうしてもみえてしまう。この権力は、劉暁波の市民たちの民主運動を監視している監禁と一対をなしているのではないかとも。そして大変憂鬱なのは、ヘーゲル的世界史の言説の再語りのうちに、「天命」などという語彙を用いて語られる民族主義国家主義の「知」である。そこからは、安倍と日本会議の「伊勢ー靖国」の国家神道的復活に対する警戒危の言葉をきくことができない。世界帝国の現状肯定的展開と国家神道復活、最悪のシナリオの組み合わせと言わざるをえない。今日においてもっとも問題とせざるを得ない「知」の権力と監禁とはなにであるかが明らかとなってきたと願うが、問題の所在をうまく整理できたかどうかわからない。抵抗する市民の思想は、幸徳秋水大杉栄の自発性の思想を小田実の《でもくらていあ》の思想と結びつけて、主張している。

 
本多 敬さんの写真