「論語」の世界 No.1

論語」の世界 No.1

1、伝記作家コレルスによると、レンズ磨きで生計を立てていた哲学者スピノザは、ナポリの革命家マザニエッロに扮した自画像を描いたというのは、ドゥルーズが言うところの所謂ナポリスピノザのことである。スペインの支配下にあったナポリでは、1647年にマサニエッロの反乱が生じ、支配体制を揺るがした。この時代背景として、近世ヨーロッパに起きた<17世紀の危機>についていわれる。(ピューリタン革命と名誉革命(国王と議会の対立)、フロンドの乱(国王と貴族の対立)、三十年戦争ウェストファリア条約神聖ローマ帝国の事実上の解体、「オランダの世紀」、「太陽の沈まぬ国」と呼ばれたスペインはヨーロッパでの覇権を失ったこと)。そして<17世紀の危機>はグローバルに起きていたと考えられるようになった。<17世紀の危機>はアジアにおいてみることができよう。例えば、中国の明帝国と徳川日本との間に経済的・社会的・政治的システムの差異があった。明帝国から清帝国への移行が起きたとき、これを契機に、中国観が変わるといわれる。徳川日本の儒者たちの思想が朱子学から...自立を得ていく17世紀に、古義堂の伊藤仁斎の東アジアにもたらした<知識革命>は重要な意義をもった。(学問は天皇・貴族と寺社に独占されていたが、武士政権の時代に町人階級が学ぶようになる。)仁斎と徂徠の古学から影響を受ける形で、18世紀の本居宣長中国文明からの自立の方向で国学を確立していくことになった。

 

2、「論語孔子の時代、学問(理論)と徳行(実践)は分かれていないあり方をもっていた。いわゆる言行一致である。儒者にとって「論語」はただの文献ではない。だから中国学者に「論語」を訳させると、「論語」は文献性としてあるるだけ思想性はないので、読者には「論語」の意味がみえない。福沢諭吉がいうように、知識人は宿命的に「大知」(歴史を展望する知そして空間的な世界を覆う知)が要求されるのである。そのことを前提に、だが、「論語古義」(仁斎)の原文を現代語訳することの無謀なほどの難しさー仁斎の頭の中にある書き下された日本語のわれわれの解釈を読みだしていくこと、さらに日常感覚をもって現代語訳することの難しさーについて子安氏は語っていた。

3、中体西用論は、「中国の伝統的な文化、制度、倫理道徳を根本(つまり「体」に)して、西洋の科学技術を利用(つまり、「用」すべし)」という意味。朝鮮の儒者両班)を政治をもつ。政治から、中国の儒者たちが近代化を担ったように、近代化に取り組んだという。それにたいして、徳川日本の儒者たちは道徳の領域に行く。そのことによって儒者たちは自らを政治にかかわるべきだと考えたか?かかわるべきではないようなことを言っている(朝鮮の儒者たちは支配階級を成していた場合と異なり、徳川日本の武士でない儒者たちの場合は、支配階級の政治に口出しすることは大変危険なことであった。そのかわり、理念的な要請、道徳の要請によって自らを代表したとかんがられる。だから17世紀の仁斎は自らの思想に、李退渓や李栗谷などの朝鮮儒学のようには中国朱子学宇宙論的・存在論的形而上学の枠組みを適用することが起きなかったのではあるまいか。)東アジアの儒者たちがいかに近代化に取り組んだのかという差異を考えるためには、「論語」を読み解く渋沢栄一の言葉をその時代感覚とともに読むと、東洋のアダム・スミスなどと近代化からの読みを相対化することなく決めつけてしまうと、1840年という教育がピークだった天保の改革のときに生まれた儒者の知識人としてのあり方を見失うような気がする。

4、伊藤仁斎にもどろう。仁斎は「性」を「生まれつきの性」と解することによって、宇宙論的存在論的「天」との繋がりを切断してしまった。仁斎の場合、最初に来るのが「性」ではなく「道」である。ここで「性」にまだ意味があるとすれば、それは「一己性」としての「性」のあり方である。17世紀において新しく問題はこのように構成される。つまり、天下性の「道」がいかにこの「性」と繋がるのか?、と。仁斎のこの答えは、「学問」によってであるとされた(「童子問」)。学問」を自分たちのもにすること。「学問」といっている充実こそは、人間世界を支える天下的な「仁」(他者への方向性をもった愛)の形成をめざすものにほかならない。こうして、17世紀の言説に「性」が余儀なく分散させられたとき、仁斎の孔子への信を形づくる天、(そして徂徠の聖人が定位する天)が成立したといえる。では18世紀の宣長において、儒者が一体化したいとしたその「天」はいかに分散させられるのか?宣長はいう。「さてその主(むね)としてよるべきすじは、何れぞといへば、道の学問なり。そもそも此道は、天照大護神の道にして、天皇の天下をしろしめす道、四海万国にゆきわたりたる、まことの道なるが、ひとり皇国に伝はれるを、其の道はいかなるさまの道ぞといふに、此の道は、古事記書記の二典(ふたつふみ)に記されたる、神代上代の、もろもろの事跡のうへに備はりたり。此の二典の上代の巻々を、くりかえしくりかえしよくよみ見るべし」。「古事記伝」を書き終えた宣長は、主として学ぶべき学問とは「道の学問」だと言いきるのである。「わが古えの道の学びとしての国学、すなわち「古道学」はここに成立したということができる。そしてわが古えの道の論、すなわち「古道論」もまた国学を構成する有力な論説としてここに成立したということができるのだ」」(子安宣邦宣長講義」2006、岩波書店)。宣長においては、日本にとって先ず漢字・漢文テクストが存在するという歴史的な事態についての見方を転換させて、わが固有言語が先ずあるという。18世紀の新しい言説は、17世紀の儒者たちの言説を、方法論的に構成された「やまとことば」の一点に集中させる。このような「古語のふり」の再生から指示される天地の意味が不確定となるのである(「阿米(アメ)てふ名義(なのこころ)は、未だに思ひ得ず」)。18世紀の新しい言説は、17世紀のそれからの影響を受けたうえで、その脱構築的解体を行うと同時に、中国文明からの自立をいう思想を成り立たせたのである。と一応私はそういう理解に至っている。

 

 

本多 敬さんの写真