「言葉と物」のコンパクトな世界 No.2

「言葉と物」のコンパクトな世界 No.2

長年避けてきたのであるが、ようやくニーチェのことを考えはじめた。どうして考えはじめたのかを自分で考えるために、フーコのリカードマルクスニーチェを論じている文章を読んでいたが、この際あらためて「言葉と物」をできるだけざっと読んでおくかという気持ちに。無謀な夏休みの宿題かも。それにそれをやるためにはすでに夏バテの兆項が。だが儒者が読む「言葉と物」ならば可能かも?(もっとも儒者といっても、朱子学ランキング10億位なんだけどさ。)正当派のフランス文学にこだわる学問からみれば儒者が読む「言葉と物」などは異教徒的異端ということになるのだろうけれど、もともと「言葉と物」の関心はいかにゴダール映画を読み解くかという所にあったんだしね(学問は映画などを相手にしない)。だれかとの対談のなかで、「社会に関してはレヴィ=ストロースが、無意識に関してはラカンが、意味というものが恐らくある種の表層的な作用、煌きか泡沫のようなものにすぎぬこと、そして、我々を深層において横断し、我々以前にあって、時と空間の中で我々を支えているのがシステムであるのを明かした。」という。なるほどなあ、そのシステムのひとつが思想史だとやっと気がつく。自分が一体どういう時代に生まれてきたのかをだれもが知りたいとおもう。そのときそこに思想史の入口があるのだ。そしてこの思想史から何を言うか?だが対立の政治的振幅が大きく身に危険が及ぶような時代ならばあえて隠遁も考える必要も。怒りを保つために。だが遠くから抗議することは卑怯だろうか?人間は歴史修正主義者の国家理性にかかわることもできる。実際に国家理性は大衆の浮動票に依存している。だが国家理性から遠く離れて、人間がラジカルになるのは人間が人間自身の能力にだけかかわるときである。そのとき思想史を知ることが無ければその時代に対等な自己を築くことが中々難しいし、それ以前に誰も言わなかったようなラジカルに新しい思想を書くことも不可能だろう。

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