(全文) チェ―ホフとはだれだったのか? ― 「壁なき演劇センター」主催の演劇集団ア・ラ・プラスのチェ―ホフ「かもめ」を読む

チェ―ホフとはだれだったのか? - 方法としての演劇


壁なき演劇センター主催「かもめ」(チェーホフ作・神西清訳・杉山剛志演出構成)集団ア・ラ・プラス公演を観た。劇中でトリゴーリンやコスチャが語る芸術論は作者自身の芸術観を代弁するものとなっているという。役者たちが訴える作家生活の内情はチェーホフ自身の姿が投影されたものであるという。トレープレフのセリフで、「古い形式か新しい形式かということではなく、人間か書くということが問題なのだ」と訴えていた場面が大変心に響いた。ここでマルクスの言葉がよぎった。「ラディカルであるとは、事柄を根本において把握することである。だが、人間にとっての根本は、人間自身である。」つまり人間にとって意味があるかどうかなのだ。演劇は常にこのことを問う。舞台というのは、人間の考える能力、行動したり感じたりする能力に人間的意味を与える場所だとあらためて知った。人間は人間自身でないもの、例えば歴史修正主義者の国家理性とかかわることもできる。実際に国家理性は大衆の浮動票に依存している有様だ。だが国家理性から遠く離れて、人間がラジカルになるのは人間が人間自身の能力とかかわるときだけである。特...筆したいことは、集団ア・ラ・プラスの「かもめ」は、隠蔽されている大衆の暴力を明確に暴いていることだ。田舎娘の恋人ニーナのようなふつうのありふれたひとがふいに日の当たる場所に引き出されたときに、かくも野蛮に共同体からスキャンダルな存在として非難され排除されるのかと衝撃を受けた。演出家の問題意識がはじめて「かもめ」という暴力の問題に取り組んだ芝居を成り立たせたのではないか。三人の女優が舞台を見事にリードした(チェ、東ケ埼、安藤)。劇場を出て下北沢の街頭を歩きながら考えたのは、「私たちの時代は終わってしまう」というポリーナの言葉とその欲望についてであった。ドールンと隠遁して他の道を生きようとするだけではない。時代と国と対等な自己のあり方も再構成しようとしているその姿勢をチェーホフは表現したのではないか。チェーホフの意志と共にポリーナとしてこの舞台に立つ者は、ほかならない、50年以上、時代と国と対等な演劇をつくってきた志賀澤子氏である。
 

チェーホフ「かもめ」のセリフで「古い形式か新しい形式かということではなく、人間か書くということが問題なのだ」と訴えていた言葉があった。心に響く。マルクスの言葉を考えた。「ラディカルであるとは、事柄を根本において把握することである。だが、人間にとっての根本は、人間自身である。」つまり人間にとって意味があるかどうかなのだ。演劇は常にこのことを問う。舞台というのは、人間の考える能力、行動したり感じたりする能力に人間的意味を与える場所だとあらためて知った。
人間は人間自身でないもの、例えば歴史修正主義者の国家理性とかかわることもできる。実際に国家理性は大衆の浮動票に依存している有様だ。だが国家理性から遠く離れて、人間がラジカルになるのは人間が人間自身の能力とかかわるときだけである。
チェーホフが取り組んでいた文学者=知識人の問題をいかに大衆社会の現在に伝えるか?彼は隠蔽されている大衆の暴力を描いていたという。ふつうのありふれたひとがふいに日の当たる場所に引き出されたときに、野蛮に共同体からスキャンダルな存在として非難され排除されるのかを描いている。
「かもめ」のなかで、「私たちの時代が終わってしまう」と誰が語ったか?それは演劇自身が直に問いかけてきた言葉だ。演劇というものは、<国内亡命>に近い概念を持っていると思う。大衆から隠遁して他の道を生きようとするだけではない。時代と国と対等な自己のあり方も再構成することを決してやめないからである。 

「いやしくも美に関する判断にいささかでも関心が交わるならば、その美学的判断は甚しく不公平である」というのは何故か?芸術の場合は、悟性は快・不快と結びつく対象を考えることができない。感性によって与えられた対象を考えるという関心が科学において成り立っていても、芸術のところでは成り立たない。美学的判断は対象の実在性の表象も関心もないのだ。例えば、トリゴーリンは自己が作り出した「美」についニーナが大きな「関心」をもっていることを告げるとき、彼女にたいして抗議するかのように苛立つが、ここにチェーホフは美学的判断の問題を表現していたのではなかったか。「かもめ」と「湖」が其々、「関心」と「美」に対応するとすれば、「かもめ」は撃ち落とされなければならなかった。2016年、再びトレープレフが撃ち落としたかもめとは「美しい日本」ではなかったか? 

 

「言葉、言葉、言葉」、と、作家志望のコスチャは苛立ちをもってシェークスピアの言葉をひく。戯曲の存在は演劇にとって不可避な理性のようなものである。演劇は、映画カメラが経験世界とらえるように、言葉によっては十分にとらえきれない生き生きとした世界を迫真性をもって提示することが不可能なのだろうか?戯曲=理性=言葉の演劇の限界をみる人もいる。だがその映画も俳優を必要としてきたのである。映画は演劇なくしては成り立たないことも事実だ。まだどうしても演劇がなくてはならないとしたらその演劇にはたしてなにが残るのだろうか?こうして、21世紀の「かもめ」は、演劇の理念を問うこの探求をもつ、と、私はかんがえる。
第1幕で上演されるコスチャの劇中劇はシェークスピアを喚起するものだ。この劇中劇を絵画フレームの中の絵画フレームとして構成している。ベラスケスの絵画・ラス・メニーナス(女官たち)を思わせるような奇妙な配置で、人物たちが傘をさして観客に相対する。観客として舞台前方に横に並んで座っているこの彼らの背後に、喪服のような白のベールのスク...リーンが現れる。「人も獅子も鷲も鸚鵡も、生きとし生けるものはみな、悲しい循環を終えて消えてしまった。もう何十万年もの間、大地は生命を宿すこともない…」。コスチャはこの「循環」を復活させるつもりだろうか?だがなにも投射されないスクリーンを切り裂いているだけだ。まるで何も書かれていない白紙の本を書いているようである。途方にくれる、われわれ観客が目撃するのは、裂け目としての<不可能な循環>の痕跡しかない。
と、いきなりこの舞台は私に、「自転車の車輪」(1913年)のイメージへ連れ出した。「自転車の車輪」はデュシャン初期のレディメイドで、椅子の上に自転車がさかさに立ててある。これとまったく同様に、椅子の上の役者たちが失われた連続性への郷愁に侵入していくのを私はみたのである。存在の孤独と非連続性とを、一つの連続性の意識に代える欲望としての侵入というか...。椅子の上のアルカージナとマーシャの肉体を指示した欲望の線は、トリゴーリン(生計を立てる真面目な労働)とメドヴェージェンコ(家庭)の捕獲から逃れる。それだけではない。ポリーナとドールンの聖な欲望は聖なる欲望はシャムラーエフ(国家)の監視からなんとかして逃れようとするのだ。最後にコスチャの心情の欲望はビクトリアン朝消費社会のコピーとなったロシアの捕獲から逃れることになるだろう(生命のためでない遊びへ行った?)。
「自由に喋らせてくれ!」。これは戦争法案の強行採決あと、戦争法案に抗議してきた若い女性たちにたいする激しい非難が起きたときに、彼女たちから言われた言葉である。実はそれは日本社会ではじめて言われたことばである。これと同じ方向で、「生きたいと言っているのに!」という言葉は演劇の世界ではじめていわれたと私は考えようとおもっている。この言葉はそれまで一度も言われたことが無かった、言い換えれば、いままで一度も存在しなかったということとして。そういう意味で、「壁なき演劇センター」主催の演劇集団ア・ラ・プラスによって、チェ―ホフ「かもめ」がはじめて上演されることになったのである。ベトナム公演に行くという。もう一度コスチャの言葉を引く。人も獅子も鷲も鸚鵡も、生きとし生けるものはみな、悲しい循環を終えて消えてしまった。もう何十万年もの間、大地は生命を宿すこともない…」。たとえ大地は生命を宿すこともなく決定的な循環がなくとも、絶望の淵から巻き返していくという、生きたいと願っている人々によって世界演劇の絶えず再構成されていく理念- 方法としての演劇- を称えよう。(本多)