ヒチコック

    • ヒチコックは誰も成し遂げなかった宇宙の支配を獲得した、と、ゴダールはいう。ヒチコックの映画の作り方は、ハリウッド映画のシステムのように、計画の必然性が主宰してきたような支配ではなかったと言いたいのだろう。恐らく映画の表現はこれと無関係ではあるまい。たしかにそうだ。ヒチコックの確率が介入する宇宙を見よ。「サイコ」の暗闇の地下室を進むときは、微分して基底の変化をみる(ノーマンの水平の家から母がいる垂直の家へと基底が変わる) 、だが肝心なその方向が事前にわからないままに。恐らく最後までわからないであろう。あらためて映画から考えることになった、前か後ろか?右か左か?という問題を。資本主義にたいして、巻き返すために、前へ進んでいるはずなのに後へ後退していないだろうか(ロシア革命アバンギャルドのあとの社会主義リアリズム)。だがあえて後ろに戻るときに遥か前へ行くこともある(フランス革命のときにあらわれた古代ローマ時代の衣裳)。また、巻き返すために、左へ行くと言って右へ行く、と同時に、右へ行くと言って左へ行くことが起きるのはなぜか。実はこれは左とか右とか分けられない運動だったからである。分けたら無理が起きるのだ。言うまでもなくプルーストの小説のナレーションのありかたに見出せるが、思考の網に起きた事件というか、他者というか、身体のなかで振動を感じた場所にまっすぐに行くだけである、真っ直ぐといっても、予めその方向がわからないのだから、暗闇のなかで方向性を理念としてもつことがはじめて課題となったのである。

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