和辻

‪‪ 「清明心」という理念型を根拠にそういう文化を担った古代人たちが実在したと思っちゃうのは、伝説があるのだからそこで伝える事実が実在したはずだと思いこむのとおなじ。そいうのは大抵は現在を美化する都合のいい解釈だけで。「餓死」でしかなかった事実を、「祖国のために命を捧げた」という物語に置き換える美化は現在に始まったことではない。‬高慢な理念性がそれを語る人に帯びるのが常だ。そういう理念性の高慢とは、理念性があれば必ず実在性をともなうという教説の高慢である。「祖国のために命を捧げた方々」は、「祖国のために命を捧げた」と繰り返す。ここで他のことをかんがえなくてよいとばかり。戦前の形をよびだそうとするいまの時代に、和辻の文化論的言説を読むと、経験知の暗闇の一切を巻き返すほどの光の包摂をもって、経験知なき理念性を物語化していったのも、「清明心」を指示する神話化ではなかっただろうか。‬

‪「上代人は、全体性の権威を無限に深い根源から理解して、そこに神聖性を認めた。そして神聖性の担い手を現御神や皇祖神として把握した。従って全体性への順従を意味する清明心は、究極において現御神や皇祖神への無私なる帰属を意味することになる。この無私なる帰属が、権力への屈従ではなくして柔和なる心情や優しい情愛に充たされているところに、上代人の清明心の最も著しい特徴が看取せられるべきであろう。」(和辻『日本古代文化』)‬