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‪‪「弁名」ノート‬ No.1 (私の文学的フットノート)

‪「弁名」ノート‬ No.1

‪わたしは、鍵のかかっている誰ひとりも入って来れない部屋のなかで、道、天、鬼神、天、仁義、義、徳、誠をみていると言うことが果たして可能だろうか?これら一切合切が部屋の外に脱出してしまったかもしれないのに。そこに、名があるのだから何かの痕跡であるとかんがえてみるが、投射があるからといって部屋の中に光源があるとはかぎらないように、思考の部屋の中に留まっていてはわからないままかもしれない。そもそも、この部屋自体は肉体と同様に、誰もが入ってくる密室かもしれないではないか。と、そこまで疑っていくとき、原初に誰かが名を与えたということを信じてみなくてはならないところにどうしてもやってくる。その他者を、荻生徂徠が言うように「聖人」と呼んでみるとき、そこから何を言うことになるのだろうか?何にも依らずに考えることは不可能である。思考が捉えることができない何かに依拠することではじめて考えることが可能となるのではあるまいか。この問題意識がこの一文に書かれていると思うのである。(ここまでは勝手に私が自分のために分かるように記したフットノートである)

• 参考に、私が関心をもっているところについて明らかにしてくれる、子安宣邦氏の評釈をここに示しておくと、「聖人これを立ててこれに名ずく」(徂徠)について、「聖人が『鬼神(祖霊)』を祭祀すべき対象として命名することで、人びととその共同体における鬼神(祖霊)祭祀という祭祀行為が成立することを、『聖人が鬼神を立て、名ずけること』だと解するのである。聖人による『命名行為』は、鬼神祭祀の制作行為でもあるのだ」(p.30ーp.‬31、「徂徠学講義『弁名』を読む」岩波書店 2008)‬