ドウルーズ

ドウルーズはプルーストを語るところで、<蜘蛛>左翼は言説のたたかいで振動する必要を訴えていた。問題は、その振動が大きければ大きいほど、常にそれと同じ大きさをもつ対抗言説の振動にキャンセル・アウトされてしまうということ。そうして結果的に振動していない。だからそういうときは、相殺されない何か持続できる振動を生産する戦略の変化がもとめられている。こういうときにそんなことはどうでもいいと、同じことをしていさえば永遠に正しいのだからとするぶれていない人は多いんだけどね。確かにぶれていないが振動も起きてない。現実にたいしてアートができることはそれほど多くないようにみえる、というか、アートに何もないかもしれないけれど、なんというか、アートは自らの作り方を革新することによって、アレンジメントと呼ばれる言説の権力をめぐる配置(過程)を呈示する可能性をもっているか