「弁名」ノート‬ No. 15 ( 私の文学的フットノート)

「弁名」ノート‬ No. 15 ( 私の文学的フットノート)

‪子安氏の訳を読みながらここで徂徠が言っていることを理解すると、聖人というのは「当に行うべきの理」(当行の理としての道)を学ばないこと、学ばずと明らかであること、ということらしい。聖人としての孔子も学んだのは先王の道である。これは徂徠の外部的視点から導かれてくるといえるかもしれない‬