思想と言葉

‪「破綻しているのになぜあなたたちはわかいひとたちにやらせようとはしないんだ」という前衛主義にたいする裏切られ感は大島映画の義憤だった。この後に、「『意味がないことをやっても意味がない』ということも近代なんだ」と、70年代の学生と市民は言説によっては覆せない意味の権威の占拠をおこなった。(80年代のノンセクトの公害運動のなかに継承された。) 以降は、他者の意味を問う思想が前面に出てくることになった。とはいえ、世界思想の同時代性と自己称賛しても仕方ない。思想は時代から独立できない。だが時代と対等に、時代から自立したいとする。思想は近代から自立したいと望むのである。思想は思想の名を獲得するためには、思想は少なくとも、近代が自らを表現するために古代の統一像を借りることを批判しなければならないようにみえる。‪思想は統一像に依存することを拒むからである。‬"『古事記』は日本人に読み継がれてきた"という言説に、自己を表現する文化に絡むとられていく形で、恰も約束された起源に後退しなければ新しくなにも語れないとする知はわれわれに何を為そうとするのか?(それでいて明治維新よりも前の思想へ行くことはない。) そこまで行かなくとも、19世紀20世紀の民族に国民の名を与えた時代遅れの国家の思想(「帝国の構造」とか「帝国の経験としての観光」)を21世紀のグローバル時代に一生懸命作り直そうとしている。そこに思想の言葉が一言も書かれてはいないとおもってしまう。
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