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「徂徠鬼神論と鬼神祭祀論」(子安宣邦、徂徠学講義「弁名」を読む 第十講)

‪鬼神とは何か‬

‪鬼神とは天神と人鬼なり。天神・地示‬ ・人鬼は周礼の見ゆ。古言なり。地示を言わざるものは、天神に合してこれを言う。凡そ経伝に言うところはみな然り。後世、鬼を陰に属し、神を陽に属する所以は、易にこれ有るを以てなり。古人、疑いあれば、これを天と祖考とに問い、し亀はみな鬼神の命を伝う。これに易の鬼神を言う所以なり。後儒はすなわち命をし、神亀に享くと謂う。し亀は霊なりといえども、また白しょう大王のみ。聖人にしてあにかくのごとくそれ()らんや。この義明らかならず、遂に易の鬼神を以て陰陽の例、造化の迹となし、人鬼を外して言をなす。謬りの甚だしきものなり‬

‪「天命帝鬼神」第十一則‬ ‪凡そ鬼神言うものは、易よりは善きはなし。その言に曰く、「仰いで以て天文を観、俯して地理を察す。この故に幽明の故(こと)を知る。始めを原(たず)ね終わりに反(かえ)る、故に死生の説を知る。精気は物を為し、游魂は変を為す。この故に鬼神の情状を知る」と。この三者はみな易を賛するの言なり。人はみなその鬼神を言うことを知りて、易を賛することを知らず、すなわち易をすててこれが解をなす。故にその義を失するのみ。けだし易とは伏義仰いで観、俯して察して以てこれを作る。前に由る所無く、直にこれを天地に取る。礼と曰わずして故と曰うは、なお故実の故のごとし。上相伝うるものを謂うなり。堯舜まだ礼を制せざるの前に、けだしすでにその故有り、堯舜またこれに因りて制作するのみ。学者いやしくも易に明らかならば、すなわち制作する所以の意は、これを天地に取りしことを知らん。‬

‪「精気物を為し、游魂は変を為す」というのは、‬‪すなわちいわゆる「幽明の故(こと)」「死生の説」なり。鬼神の情状は、祭ればすなわち聚まり、聚まればすなわち見るべく、祭らざらばすなわち散ずるなり。散ずればすなわち見るべからず。見るべからざればすなわち亡きにに 畿し。「精気物を為す」とは、聚れば物有るごときを謂うなり。「游魂変を為す」とは、魂気游行し厲(れい)を為すを謂うなり。これが檀せんを立て、これが宗廟を立て、祭祀以てこれを奉ずれば、()然として在(いま)すが如し。これを「ものを為す」と謂う。然れどもこれを祭るや、「これを迎える」と曰い、「これを送る」と曰い、「彼においてするか、此においてするか」と曰えば、これあに必ずしもそのここに在るならんや。また聖人その物を立つのみ。これ鬼神を言うといえども、然れども易にまたこれ有り。大伝また曰く、「乾は陽物なり。坤は陰物なり」と。六十二卦、孰れか陰陽に非ざる。聖人特にこれが物を立てて乾坤と曰う。天地位して造化行われ、乾坤立ちて易道行われる。乾坤毀るるときは、すなわち以て易を見ることなし。鬼神の道もまた然り。故に伝に曰く、「明らかに鬼神を命けて、以て黔首(けんしゅ)の則となす」と。聖人のその物を立つるや、これ教えの術なり。故に易を知れば、すなわち鬼神の情状を知るなり。聖人は能く鬼神の情状を知る。故に幽明生死の礼に立つ。‬

‪「天命帝鬼神」第十五則

徂徠は仁斎をこう批判する

‪仁斎先生曰く、「三代の聖王の天下を治むるや、民の好むところを好み、民の信じるところを信じ、天下の心を以て心となし、しこうして未だ嘗て聡明を以て天下に先だたず。故に民鬼神を崇むときは、すなわちこれうぃ崇み、民卜ぜいを信じときは、すなわちこれを信ず。(ただその道を直くして行うを取るのみ。) 故にその卒(おわり)や、また弊なきこと能わず。孔子に至る及びては、すなわち専ら教法を以て主となして、その道を明らかにし、その義を暁らめ、民をして従うところに惑わざらしむ。孟子のいわゆる「堯舜に賢れること遠しとは、正にこれを謂うのみ」と。‬ ‪これその臆度の見にして、道にもとるのは甚だしきものなり。何となればすなわち、鬼神とは先王これを立つ。先王の道はこれを天に本づけ、天道を奉じて以てこれを行い、、その祖考を祀りてこれを天に合す。道の由りて出ずるところなり。故に曰く、「鬼と神とを合するは、教えの至りなり」と。故に詩書礼楽は、これを鬼神本づけざるもの有ることなし。仁斎の意、けだし謂えらく三代の聖王はその心またおにっを尚ばず、ただ民の好むところなるを以てして、しばらくこてに従うと、妄なるかな。この道を知らざるものの言なり。‬ ‪

‪且つそのいわゆる「孔子、教法を以て主となす」とは、口諄諄としてこれを言うを以て教えとなすのみ。ろうなるかな。これ講師のことなり。あに孔子にしてかくのごとくならんや。且つその言に曰く、「その道を明らかにし、その義を暁らめ、民をして従うところに惑わざらしむ」と。その言は是なるも、その意はすなわち非なり。もし先王の道を明らかにし、先王の義を暁らめて、一意先王の教えに従いて他岐の惑い無からしめば、すなわち可なり。然れども先王の教えは礼なるのみ。今、先王の礼に遵わずして、言語を以てその理を明らかにせんと欲すれば、すなわち君子すら尚能わず。況や民にして戸ごとにこれを説き、その理をさとして鬼神に惑わざらしむるは、、これ百孔子といえども、また能わざるところなり。すなわちその理学の錮するところとなりて、自らその言の非を覚らざるもの、あにし悲しからずや。漢以来、仏老の道の天下に満ちて、これを能く廃するももなきは、先王の鬼神の教えの壊れしが故なり。これあに理学者流の能く知るところならんや。‬

‪仁斎先生曰く、「凡そ天地・宗廟・五祀の神、および一冊神霊ありて能く(人の)災い福をなすもの、みなこれを鬼神と謂うなり」と。これを得たり。ただ宗儒の謬りに沿うりて、鬼神の名を正すこと能わざるは非なり。また曰く、「今の学者、風雨・霜露・日月・昼夜を以て鬼神とするは誤れり」と。またこれを得たり。然れどもこれみな神のなす所なり。故に伝に曰く、「髪気は風()なり」と。説かに曰く、「神とは、万物に妙にして言を為すものなり」と。下文について雷‬ ‪・風・火・沢・水・ごんを言う。以て見るべきのみ。‬ ‪鬼神の説、紛然として己まざる所以のものは、有神と無神の弁なるのみ。それ鬼神とは、聖人の立つ所なり。あに疑いを容れんや。故に鬼無しと謂うものは、聖人を信ぜざるものなり。その信ぜざる所以の故は、すなわち見るべからざらるを以てなり。見るべからざるを以てして、これを疑わば、あにただ鬼のみならんや。天と命とみな然り。故に学者は聖人を信じるを以て本となす。いやしくも聖人を信ぜずして、その私智を用いうれば、すなわち至らざる所無きのみ。‬