21世紀のヴェルディ「ナブーコ」を読み解く

ナブーコは「わたしは王の影でしかない」と嘆く。そのとき、このヴェルディ「ナブーコ」の舞台の端に、19世紀を映し出す、古代の物語で縁どられた、大きな鏡が立つようだ。空中庭園のように、オーケストラの音のうえにあらわれてくる。現実世界と共有するその形式についてサイードのようには上手く分析できないけれど、縦軸に帝国が行く政教分離の方向(バビロンとオーストラリア帝国)が、鏡の横軸に、祭祀国家の方向(シオンとイタリア)がみえるのだ。そして対角線上に、祭祀国家がどういう条件で成り立つかを観察できるような気がしている。それはこういうことだ。国家は植民地化の危機に嘆きあって権力を集中したが、問題となってくるのは、植民地化の危機がなくなった後になお、その権力集中を続けることの無理、これである。20世紀の記憶をもつ観客の為に、彼らが戻ろうとしていると望んでいるかもしれない19世紀的問題が舞台にうつしさだされているというわけだ。西欧は、首相公式参拝靖国神社をWar Shrineと翻訳する西欧は、靖国問題にある祭祀一致の危険性を日本人よりも正確に理解しているのだろう。