「小さな人間」

‪国家であれ国民であれ、<一>を強調するか<多>を強調するかの観点の違いだけで、国民国家という全体性の論理を表現する本質に変わりない。その本質からは見えず命名もできなかったものを正当な名によって指示できた『トランスクリテイーク』は自らをグローバリズム時代の先駆的思想と考えたか?確かにカントの読みは多様体の思想を開く重要な意義をもつ可能性があった。だがカントが十分に目覚めるまえに、『帝国の構造』は再び世界史というヘーゲルの全体性の論理を呼び出しただけだった。それは「大きな人間」のための道だ。前置きが長くなったが、これにたいして、2007年の小田実が言うところでは、「小さな人間」は潜在的に「反体制」の位置に立っているという。その潜在を顕在にするのが、彼は「文学」だと考えていた。‬文学に現われる思想の問題に言及していたのだろうか、そういうことについてわたしにかんがえる力が十分にあるだろうか、正直無いとおもっているが、しかたないね、「大きな人間」ほどには時代の物の見方の内部に長く留まれない「小さな人間」の視点から考えてみようとおもっている。文学というのは、powerlessというか、脆弱さによるんだろうね、宗教とか学問または芸術と比べて、物の見方が崩れやすい