17世紀の知識革命

‪17世紀の知識革命‬ 

‪近代においては、価格が価値をきめる。ネオリベラリズムの思想が席巻する現在、何でも彼でも金がものをいう。そこでは社会と市場とが 、価値が価格と同一視される。そういう物の見方が確立したのは、そう遠くに遡らない。500年前からの17世紀、交換の時代から始まること。だけれど、この時代の支配的思想は、価格と貨幣に先行して、先ず価値あるものは何かを問うたのである。価値あるものをいかに分類し名を与えるか。二つの価値あるものが交換されるのはなぜか?それを文のどこで言語化できるか?17世紀の思想は、複雑な世界から自立しはじめている、簡単な世界の現れをみている。17世紀の思想革命は、複雑な世界をみる物の見方にたいして リアルにかんじられないときはじまった知識革命であった。同時代的に、アジアでも町人が推進した知識革命が起きた。‪「道あり人あり」という「道」よりも、「人あり道あり」の「道」のほうが価値があるのはなぜかと初めて問うラジカルさをもった。ここから、仁斎は、当時東アジアを代表する思想ー朱子学ーにたいして思想闘争を挑んだのである。改めて、思想革命とは何か、私なりに整理すると、それは、究極的に依拠できる価値あるものを学において発見していくことではないか。学問は近世まで寺社と宮廷貴族に独占されていた。町人が学の要請された意味を発見していく。江戸時代の学問する町人たちは、複雑な世界(奥深い内面)から自立しはじめている、簡単な世界(天と地の間の往還)をリアルにみはじめているのである。思想の解体的ラジカリズムを、あえて『論語』を選んでその読みを再構成していくことによって、万民のために普遍化していく‬。‪

17世紀思想が発見した学びこそ、万人が依拠できる多数の入り口をもっている。近代は卑近さから語りはじめたこの画期的な視点を生かしているか? 1%と99%を分割しようとするネオリベラリズムの思想は学に値しない。‬