MEMO

‪Blackboard ‬

‪between Stones, ‬

‪Pockets & Hands & Numbers. Images gone and Images still here‬

ー owlcat‬


It is the supreme paradox of thought to want to discover something she herself can not think.

- Søren Kierkegaard


他者の中国からみえてくる、徳川ジャパンの面白い地理的表象と文化的配置


Happy Birthday 

Jean-Luc Godard

3 December


Theresa May fails to strike Brexit border deal with Irish government

(The Guardian)


‪英国の一国主義的方向のEU離脱アイルランドにとっては深刻な問題。北の英国復帰によって、再び南との間の国境紛争が起き得る。EUは完全な解決策ではなかったが、「敵」同士の間にEU市民同士という関係を成立させたその第三項的介入がより平和を齎した、とわたしはおもう



‪世から消滅したのは、辺鄙な場所と映画とマクロ経済学だけではなさそう。ルネサンスバロックの間に現れた絵画に人気が集まるが、『ラス・メニーナス』に先行する、『言葉と物』に書き綴られた、マニエリスム的思考も?だがアジアの仁斎論語朱子学から、ポスト構造主義が近代批判としての自らを初めて喋るかもしれないのだ‬


宮本憲一氏の都市問題を論じた本は、東京演劇アンサンブル「忘却のキス」公演のとき劇団からいただきました。観劇なさっていた宮沢賢治原作の芝居について書いていて、そこで、都市における、共同体としての劇場(演劇)の、資本の運動から自立した意味について問題提起していました。この社会資本という視点は、「社会的共通資本」(宇沢)の視点とともに、新しいテクノロジーが出現した新しい文脈においてかんがてみる価値があるのではないでしょうか。ネオリベ資本主義の国家祭祀の文化的復活とグローバル帝国的な文化多元主義の言説を相対化する批判的視点として


‪「真実を他人に伝えるならば面白おかしくすること。さもないととんでもないことになる」。真実はこうだ。映画の光とともにマクロ経済学が消滅したそのときに、暗闇の背後から極右翼があらわれた。「第三の男」の現地を訪ねたが、ワイルダ、キューカー、ラングの痕跡もなかった‬


フーコ、ジョイス、ゴダールは他者の意味を書いたり投射したが、実際にそこでは日本人がどう考えるかなど考える価値もなかった。だから敢えて思考でないものー日本語ーで考えるとどういうことになるのか、この差異を、アジアにおける17世紀の思想から考えてみようというのである


宜しい、70年代に、80年そして90年代に現代思想があったとしましょう。他者の意味を言ったが、日本人がどう考えるかなど考える価値もなかったのです。だから21世紀は、敢えて思考でないもの、日本語で考えるとどうなるか、この差異を、17世紀の思想から考えてみようというのです


ラングの映画「大いなる神秘 王城の掟 」The Tiger of Eschnapur (1958)は、'コルネイユ的'と評される。17世紀バロック演劇コルネイユの書き方とフーコの文体は似ているみたい?衒学的でなくサロンの会話ー鏡、分身、ヴァニタス(空虚)


ベートヴェンのピアノソナタ全曲、4人による演奏を聴きくらべという感じで行く年末年始になるのかしら


「‪発現元に理があるか?」と弟子がきくと、朱子はこう答えている。理は始めである、理は動因とならない、理は気とともにある、ほかならない、気によって生成展開が起きる、と。この朱子の答えは理解困難である。子安氏の解説によると、「始め」で意味されるのは、概念としての優先性をもっていること。言説の歴史からいうと、「理」は中国に存在しなかった概念で、インドからきた中国にきた概念だという。つまり理は気にくっついてきたのである。どういうことか?こういうことはこれから勉強することになるから、私は答えることができないが、私の理解では、他者の哲学から新しい自己の哲学の関係を再構成したということではあるまいか



直観的に思うのは、‪射影としてのワイワイガヤガヤ、ウロウロウヨウヨ‬


‪「體(たい)なきによりて、これを視れどもその形を見えず、これを聴けどもその聲(こえ)聞こえず」「體なしといえども、よく萬物となりて...物體而不可遺(十分な形で体をなしている)」


人間を‪(思弁的に構想される)宇宙に結びつける物の見方に魂魄論がある。‪宇宙的存在としての人間において、それほど瞬間的に消滅しないものとそれほど永遠的に続くことのないものとの一致があるのではないか?心のエッセンス(「魂」)と身体のエッセンス(「魄」)の間に。その「一致」とは何か?

「美しいものには、相反するもののさまざまな一致が含まれているのだが、とくに瞬間的なものと永遠なものとの一致が秘められている」Simone Weil



先月から新しく始まった子安氏の講座『鬼神論』。明治から150年間、日本に哲学は生まれなかったのはどうしてか?その理由の一つに、人間の存在について語る哲学に、明治の知識人たちが持っていた朱子学的のコスモロジー的思弁が科学的宇宙論にとって代わられてしまったことがあるのではないか。漢字と仮名の宇宙はなにか、(中国哲学やオリエント学の)漢字とヨーロッパ語の<宇宙>とちがって、端っこにある宇宙の存在をおもわせるなあ、そこを人間の住処にしているというか...


‪ロンドン時代、いつも新聞を読んでいた喫茶店からみえる通りの向こうのある小銀行の前に人々の行列を目撃した。これを見た人々が立ち上がり、視ているものを理解できない。どよめきが起きた。「リーマン・ショック」の始まりだった。行列はポストモダンのブレアー政権を支持してきた階層の人々だった。だけれど、その後、金融政策はどんな批判をうけても変わろうとしない。労働党政府はなにをいっても聞こうとしなかった。それは現在のアベノミックスと似ているとおもう。とうとうイギリスのジャーナリズムは啓蒙主義アダム・スミスについて言及することになった。スミスが株式会社的なものが社会の中心を為すことに反対したのは、それが「知ること」と根本的に両立しないからであると


Wood (木 mù)、

Fire (火 huǒ)、Earth (土 tǔ)、Metal (金 jīn)

Water (水 shuǐ)

Five elements theory



今年はドイツで宗教改革の記念年で、BBC3はルター特集をやった。ドイツが分析されている。そこで英国が映し出されている。オーストリア列車の中で親子の読書する姿を見てルターのドイツの影響を想像した。他方で階級間のモービリテイーの低い英国の読書は昇華的なものと思った



‪魔法で獣や家畜に変えられてしまうというキルケーΚίρκηの館は、新宿や茅ヶ崎にもある。母の看病に挫折して思ったのだけれど、ここから脱出する為には、セイレーンΣειρήνの誘惑に囚われなかったオルペウスὈρφεύςのように、音楽の力が必要だった。それと外国語‬



演劇の解釈は誰も正しさを求める。映画の解釈に誰が正しさを求めるのか。舞台の現実は、映画と同様に間違ってもいいし、演劇みたいに正しくてもいいのだ。どうしても解釈しなければならないとする側に、物の見方に必ず表と裏がありその裏に表が現れるリアルを伝えておけば十分だ



‪東アジアを舞台とした脱・南総里見八犬伝。共通して「犬」の字を含む名字を持つ男女達は、仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の文字のある数珠の玉を持つ。彼らはロゴスである。父の現前なしには身を滅ぼしてしまう子どもたちである。ロゴスはその父親なくしては、まさしく一介のエクリチュールでしかない‬


人は変装する習慣を持つべきではないでしょうか。寺山修司



‪今日は神保町に行った。年越し蕎麦を食べた。帰り道、色々な本屋さんに立ち寄る。八年間の間一番幸せだったことはなんだろうかとかんがえた。日常に流されて気がついていなかったが、それは、中国からきた留学生達と一緒にご飯を食べたことじゃなかったかな‬


アートは情報をもたないのだからコミュニケーションとはいえない。アートにはコミュニケーション問題しかない。既に言われたことをはじめて言うのだし、一度も言われたことがないのに既に言われていたと言う。アートはそこからまだ現れていない狼たち(人びと)を呼び出すのである


L’acte de résistance, il me semble, a ces deux faces : seul il résiste à la mort, soit sous la forme d’une œuvre d’art, soit sous la forme d’une lutte des hommes. - Deleuze


Qu’est-ce que l’acte de création ?


Pour le philosophe Gilles Deleuze (1925-1995), l’œuvre d’art est irréductible au champ de la communication et constitue un moyen de s’opposer aux injonctions du pouvoir. Créer, c’est résister à ce qui entend contrôler nos vies.



ポスト構造主義が紹介されてから、「フランス革命万歳」という単純なことではなくなったね。「偉大な」革命を推進したマッチョ主義が、女性たちが主宰していたパリ・サロン的な知のネットワークー他者と交際するためのデリケートな配慮ーを破壊し尽くしてしまうことになったんだよね。この辺の事情は、近代の成り立ちを考えるときにみておかなければならない側面だということを、周辺にあって近代を経験したアイルランドへ行って学ぶことができた。

"La politesse est la fille du savoir-vivre, de la délicatesse et du respect."

Marquise de Lambert ; Réflexions nouvelles sur les femmes (1727)


‪そうだ、パリ・サロンへ行こうよ。ネットのだれが、21世紀のランベール夫人、タンサン夫人、ジョフラン夫人、ドゥファン夫人、レスピナス嬢の役割を演じるのだろうか?‬


Il ne faut pas toujours dire ce qu'on pense, il faut toujours penser ce que l'on dit.

Marquise de Lambert (1726)


Of course, nothing is more difficult to approach than poetry, which is like wild animals.

Jean Cocteau



普遍、永久、完全、この三種の宝は、むろん得がたいものではありますが、しかしまた作者の棺桶を打ちつける釘でもあり、彼を釘づけにして葬ることもできるのです。ー 魯迅