本居宣長

伊藤仁斎の世界』をもう一度読む前に、読みかけた『宣長学講義』をきちんと読んでおこうとおもう。朝方布団の中でその理由を考えてみた。それ以上根拠づけてはならぬものが宣長にある。一体この彼を捉えて離さないものはなにか?近代は文献学と解釈学を以て深読みして、神話<本居宣長の謎>を作り出す。「合理的なもの」が「不合理なもの」を住処としている、と指示してみせる。だがそうして語る近代は、語られる他者(宣長)から、他者とは全く無関係に、表象<遅れている他者>を必要とする自らの正体(成り立ち)を曝け出してしまう。しかし他者というのは本当にそれほど時間の秩序にすんでいるのか考えてみたい。読みの<中>にいるとおもっていても、抜け抜けと脱出しているかも。(私も布団から出よう。)サイードがどこかで書いていたけど、西欧世界の外にも独自に発展した言語学と注釈学があることを知ろう。西欧近代「知」は絶対ではない。だがこの事実は西欧は知らないし、問題は、私も含めてアジアの人々も知らない。宣長の仕事を知らないのだ