安倍晋三とはだれだったのか?


安倍は信念をもたないという意味で自民党の中でも際立った特別の政治家だという気がします。彼の歴史修正主義も、特定の信念に裏づけされているのではなく、全く信念がないからこそ、成り立っているというかんじですね。この男は、自分の支持率を保つためならなんでもやるのです、政権維持のためなら、A級戦犯分祀だってやるかもしれませんよ。そういう意味で、怪物といわれるのだとおもいますが、支持率ということに縛られている点において、怪物は自由に喋っているとはいえないのです。その怪物も、トランプ怪獣の登場で、ご用済みになったようです。(あとは、ミサイル頼み?) このクニは世界第三位といわれていますが、そう長くは続かないでしょうから、没落するまえに、中国の金融システムにはいって人権問題をはじめアジアの民主主義のあり方を提言したほうがいいですね。それは、まさか日本が他国に民主主義を教えてやるという意味ではなく、中国にしっかりしてもらわないとアジアと日本の民主主義も成り立たなくなってきたという意味においてです。民主主義とは何かは永遠の課題ですが、自由に喋らせてくれるということがなければ民主主義は不可能でしょう。この民主主義に方向づけられる形で、トランプ、習近平、安倍が終わる五年後に向けて、今年は変化が激しくおきる色々な意味で大事な年になるのではないかと予感しています。

たしかに、トップの映像をこれでもかこれでもかとみさせられているので迷惑極まりないのでありますが、こういう醜い政治家の像は距離をもって批判するために必要なものでしょう。安倍晋三は怪物である、安倍に謎がある、とするのは、かんがえてみたのですが、同意するところが多々ありますが、どうもわたしの構成ではありません。わたしがおもうに、合理的なもの(合理的思惟)が貫かれなければならないとする合理と非合理の二項対立の近代主義の謎があるだけです、そうおもっています。1970年からはじまった思想闘争を通じて変革しなければならないのは、安倍の歴史修正主義(ヨーロッパ中心主義の鏡像)とかれが依拠している、正常\異常という近代的な物の見方です、わたしが心配している他国にたいするヘイトスピーチのことですけれど

そもそもこれまでそれほど多様性があったのかという疑問も含めて、(だからこそ安倍戦争法を抗議したデモの中から女性の「自由に喋らせてくれ」という声が出てきたわけで、今迄そんなことを言う人はだれもいなかったのです)、絶望するしかなくなったわけですけれど、少なくとも、民主主義を構築していくアジアにおける未来の人びとに、構想された多様性はどういう条件で崩されてしまうのかという歴史的教訓は残せそうですかね?もちろん伝える努力が必要ですけれど、そのときどういう視点をもって語るか、一人二人でもこういう場を利用して、議論をつうじてですね。他者(共同体も含む)にたいして、何をつたえたかという内容よりも、相手がどのように理解するのかということを常にかんがえることが大事、考えるだけでなく行うことが多様性のために要請される、そんなことを思っています。反知性主義が問題とされていますが、寧ろ問題は多様性を崩してしまう反道徳主義にあるとおもうのです。いかにも明治の響きがする「国民道徳」は、ヘイトスピーチを作り出す反道徳主義に転化しないのでしょうかね