近代文学

‪1930年代における詩と世界の関係を問うならば、問われるその哲学は世界史の哲学だろう。世界史の哲学は京都学派において言われたように一元的な「ヨーロッパ世界史」の支配に対抗する多元的世界の立場に立脚すると言った。しかし実は日本国家の内部からその内部に即して語った多元性だった。つまりその正体は多様性を奪う一元主義だったのである。ところがヨーロッパの詩を書いた日本近代の詩は帝国主義の内部にあったからその一元主義を見ることができなかった。近代文学はヨーロッパ近代を住処としたが、対抗的に、世界史の哲学にすみはじめたのである。そこに純粋な多元世界があるとかんがえたか。問題は、戦争が終わっただけで終わらせたわけでもないのに、われわれは世界史の哲学が終わったかのように考えていること。確かに、戦後に、戦争プロパガンダが現れることは無い。だけれど隠蔽されているだけのことかもしれない。そう言うのは言い過ぎかもしれない。‪1930年代における詩と世界の関係を問うならば、問われるその哲学は世界史の哲学だろう。世界史の哲学は京都学派において言われたように一元的な「ヨーロッパ世界史」の支配に対抗する多元的世界の立場に立脚すると言った。しかし実は日本国家の内部からその内部に即して語った多元性だった。つまりその正体は多様性を奪う一元主義だったのである。ところがヨーロッパの詩を書いた日本近代の詩は帝国主義の内部にあったからその一元主義を見ることができなかった。近代文学はヨーロッパ近代を住処としたが、対抗的に、世界史の哲学にすみはじめたのである。そこに純粋な多元世界があったから。ここで問題は、戦争が終わっただけで終わらせたわけでもないのに、われわれは世界史の哲学が終わったかのように考えていること。確かに、戦後に、戦争プロパガンダが現れることは無い。だけれど隠蔽されているだけのことかもしれない。そう言うのは言い過ぎかもしれない。‪しかし日本近代の外部に位置した台湾のシュールレアリスム詩人たちの戦前における抵抗を最近まで考えることができなかった。外部との関係によって新しく自己との関係を構成すること、そういう外部がないこと、近代文学を宛名にした問題だろうか?私はこれは自身の生き方が問われている問題だとかんがえている