中国<人類史>論のディスクール

<人類史>論のディスクール

国家主席の任期撤廃を正当化する言説は「人類史」に言及します。天安門広場前抗議の事実が記憶されているのかどうかという問題がありますが、とにかくこの「人類史」から、「私たちが慣れ親しんできたような民主主義型のシステムを受け入れない」と主張します。それにたいしては、国家主席の任期撤廃によって、毛沢東のもとでおきた文革と同じようなことが起きないのかとする声がかならずでてくるわけですが、国家の近代がもたらした、対抗的な反近代の政治的災害、約2000万人の犠牲者がいたといわれる政治的災害の問題を語るとき、この問題を、権力の集中の問題と切り離すことが可能なのか?そして、僅かこの百年間のあいだに、日本帝国主義の問題も含めてあらゆる問題が複雑に絡み合って凝縮しているかたちで成り立っている中国政治の「人類史」は、自己の統一像を再構築しようとするときに、果たして、それほど簡単に、異質なものを消去していくことができるのでしょうか。また一党支配の官僚資本主義ではもはや格差の問題を解決できないことを、任期なき国家主席を正当化する言説が隠蔽してしまうことが起きないかなど色々考えていますけれど、現場にいる人たちの意見をもっとき必要があるとおもいます。と同時に、憲法改正後の言論の統制のあり方について考えるときは繰り出されてくるディスクールを分析していく必要があると考えています。