Au commencement était la Parole.

Au commencement était la Parole. 


「初めに言があった」。原語では言はlógosである。初めに漢字が存在したのは、ここで言われる「初めにロゴスがあった」のとおなじである。子安氏の言葉をひくと、「漢字とは、それなくしては思考そのものが現実に存立しえない不可避の前提である」。だから、「漢字は借り物である」とはいえない。漢字は不可避の他者だから。しかしここで敢えて、言説「漢字は借り物である」は何を意味しているのかをかんがえてみよう。そうすると、津田左右吉のように、「日本人がすぐれた文化をもつこと、従ってまた日本の文化をますます進めていくことでありますが、それについて大きな妨げとなるのは、シナの文字を日本人がつかふことであります。」という風に考えることになるのかもしれない。だけれど渡辺一民氏が語るように、マルクス主義をゼロにしてしまったら何もかもゼロとなってしまうというように、この場合に問題となってくるのは、漢字を否定し尽くすと、漢字だけでなく漢字が担っていた歴史もゼロとされてしまう危険があるのである。しかし、失ってこそ獲得できるのだと開き直るのが近代主義のパワーかもしれない。仮に借り物の漢字をうしなっても、怖れるな、根源的な起源を得るのだと大いに確信しているとき、この思考の動きはユートピアの言説に絡みとられている。そこで、思考の動きの停止が私のなかに起きる。ふたたび問う。「初めにロゴスがあった」のではなかっただろうかと。ロゴスとは書記的な言語の存在である。ロゴスの否定は、根源的な起源にあるのではない。繰り返すと、「初めに言があった」。思考の優先順序として、まずロゴスが存在した。ここから、ロゴスの脱構築的な解体が可能である。敢えていうと、否定し尽くすことは不要だ。思考作用は思考の動きと停止で成り立つ。停止で十分である。混在的に、差異の運動を通して肯定されるものしかそこに存在しない。‬