「これからの教養」を問う

‪これからの世界、これからの教養、は、多様体の方向を訴えた八〇年代の響きがある。これから何とかしなければならないとする危機感から言われる言葉だろう。問題は、八〇年代のように、再び、明治の漢語「国民」の設計通りに、国に民がくっつきすぎた「公」のあり方を問わずして済むのかという点だ。<天下の公>に向けて新しい普遍主義の再構成なくして、「公」なき文化共同体(民族主義)の層を"これから"厚くすればいいという話ではないのである‬。‪この30年間、競争しあう資本主義の国家を住処にしている「公」なき文化共同体が、ライバルの資本主義の国家の他者に対してどんな言論上の振る舞いをしてきたのかを学ぶことがないようでは、これからを委ねる「教養」の言葉も、大事な言葉なのに、実がないうつろな言葉になってしまわないかと心配におもう‬