『言葉と物』

‪東京演劇アンサンブルの納会で同席したときだったと思うのだが、「1960年代に『言葉と物』はフーコが四十代のときに書いて、僕が三十代のときに翻訳した。いま五十代になった本多くんが読んでいる」、と、渡辺一民氏から言われたとき、嫌なことを言うなあと思ったものだ(笑)。そのときは、二十代のときから読んでいるのに、読む力もなく読めていなかったのが恥ずかしかったし、正直現在も読めないでいる。渡辺氏のフーコを知らない時代にフーコが何を言っているのかを知るのは本当に難しいことだったに違いない。現在は、時代と対等な大きさをもつ古典としても確立したフーコをわかってしまったようになっているという時代にそれゆえにフーコが何を問おうとしているのかを考えるのがかえって難しくなってきた。‬しかしこれはフーコに限らない話で、外部の思想をいかに獲得していくかという問題だと気がついてきたのだけれど。‪考え方として、時代と対等な大きさをもつような漢字で書かれた原初テクストをよむための工夫から、日本語が生まれてきたというふうにかんがえてみると、その日本語は原初テクストをよく読むために絶えず自らを再構成していった。この漢字と日本語の間で起きた事は、古典ギリシャ語とラテン語とヨーロッパ語の間で起きたかもしれない。話し言葉は書かれた言葉の文法性に依拠しているというのが、アジアからヨーロッパをみてみた視点である。同様なことは、1000年の時間で観察しなければならないが、外部の思想を読むために日本語が自らを再構成していくことがあるだろうと言っているのである。言葉は成熟をもってはじめて思想の言葉を自由に喋ることができるようになるのか‬。『言葉と物』の翻訳の言葉はその痕跡に違いない。