"太陽神の牛"『ユリシーズ』

‪Deshil Holles Eamus ‬


‪"太陽神の牛"『ユリシーズ』は、書き方の歴史感覚が重要である。その書き出しの言葉は、アイルランド語Deshil, 英語の地名Holles とラテン語Eamus で構成されている。呪術的雰囲気で、どうも、Let's go south to Holles Streetと言っているらしい。"南行保里為佐"と訳した丸谷才一によると、「『保里為』は地名ホリスに動詞「欲りす」の(『古事記』)万葉仮名をあてる」という。訳者が『古事記』の言語に対応していると思ったのはなぜか?とくに説明がない。素人の私の知識であるが、中国知識人と朝鮮知識人と(彼らが育てた)日本知識人の三者が一緒に書いた、国家のアイデンティティー『日本書紀』。だけれど『古事記』、『万葉集』にしたがって、"変な"中国語になっていくという。どうも、Deshil Holles Eamus のいかがわしさは、むしろ、文字を与えられた現地知識人が中心となって書いていく『古事記』において対応をみることがよいとかんがえたか?‬何にしても、このように翻訳されると、ああそうかと読めるのである。媒介として成り立つ解釈の働きを観察しよう。ジョイスは『ユリシーズ』が翻訳と解釈によって完成していくとかんがえていたようである。原文と翻訳の関係は、オリジナルとそのコピーのそれとしてと表象されるけれど、そんなに単純ではない。コピーがオリジナルに先行するように、翻訳が先行する本を書いたとしたら、その本はなんと奇妙であることか!?挿話‪"太陽神の牛"の説明文によると、「古代英語からマロリー『アーサー王の死』、デフォー、マコーレイ、ペイターなどを経て現代の話し言葉に至る英語散文体のパロデイーで書かれている」という。古典ギリシア語ラテン語という他者との関係において、近代語が自己との関係を再構成していった歴史を追うことになるわけだけれど、それだけのことだったら『ユリシーズ』の後に、『フィネガンズウエイク』は登場してこなかっただろう。逃げ腰だけれど近代に挑戦したジョイスは異常なことを本に行なっている。ヨーロッパの言語だけでなく、世界中の言葉の助けによってしか完成しない本を書いたというわけである。究極的には、出発をなすとされてきた作者も翻訳としてある。他者しか存在しない。世界の創造に語るべき中心などはない...