『失われた時を求めて』の鬼神論

プルースト儒者ではないようであるが、新翻訳で読んでいる小説『失われた時を求めて』に、モダンに構成された鬼神論に等価なものがあるだろうかなどと考えている。と書くと、「あんなものwa!?」と、非難されるまえに、呆れられてしまうことは必至である。教養主義的に書くのはヤバイやばい。さてプルーストは、逃げ去った、愛している女を死者として考えてみようという。よくある男性に顕著な欲望の形で、思慮深くここで展開する心理の機微は退屈におもうが、兎に角彼の言うことに付き合っていくしかない。読んでみると、事物の表層を読み解いているのは、20世紀の「博物学」という感じだよね。何重にも自らに折り重なる他者との関係を物語る豊穣な解釈の言葉、だけれどアルベチーノの顏は沈黙している。なんの真理も語らないだろう。ここでプルーストは、消滅することがない永遠の魂の反省の呪縛と、魂が消滅してくれたら他の女と楽しむことができる性愛の自由を比べる(同性愛を隠していたから他の男とのだったかもしれない。)一体何が意味されるのか?全体的な自らの同一性に囚われる大衆の偶像復興(第一次世界大戦を背景とした高揚する愛国心のあらゆる言説)に距離を取ろうとしているように読めるのだけれどね。‪国と時代と等価な本を書いた同化しない儒者ー反時代的精神ーヨーロッパにいたと考えてみたのであった。‬