ポスト・オリエンタリズム

明治維新王政復古150年」にたいしては、漢字書き下し文で考えらえた思想が忘却されてきたのではないかという問題がある。国内亡命の場所がどこにあるのかを問うことは、知識人の漢字書き下し文で考えらえた思想をもつことがなければ、成り立つことはないとおもう。<近く>にある思想から、存在しないものが存在しているかを時代に逆らって問うこと。だけれどグローバリズムの近代というか、外国語を直に読むことに真実性を見出す文献学プロの言説の近代は、漢字書き下し文の不在がもたらす「人びとの視座の限界」をみようとはしない。この点についてハミッド・ダバシから学ぶことはおおいとおもっている。

「私は、亡命(エグザイル)が解放の必要条件であると確信している。亡命、すなわち、異郷にいる(ノット・アット・ホーム)のにくつろいでいる(アット・ホーム)ことは、人びとの視座の限界を広げる。その限界というのは、地理、道徳、想像力すべてにわたるものだが、亡命はそれを押し開くのだ。この限界線の上で、私たちは自分自身がこれまで知らなかったものになることができる」(ハミッド・ダバシ)