「帝は是れ理を主と為す」(陳淳)
子安先生の訳と解説 (『朱子語類』を読む)
「天が帝であるとは、理を主としていうのである」
• 人間が自らに判断できる主宰性(主体的、自立的)をもつのは、人間は心をもっていることによる。
MEMO
(不勉強な私の現在から古言を解したモダンな理解から出てくる問題提起なのだけれど)
主宰しているという心の感覚は、まだ心ではない。それは直感的な感覚であり、心の中で、ただし心なしで生まれる。思考するためには、心を絵画にする必要があるとおもうのである。何かを見ることそれ自身が疑われる究極の果てに、見ることが優先されるから。映像が先行するから、思考が優先されるとは別のやり方で
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