MEMO

中国語は読めないが、『国家と祭祀』は『国家与祭祀』となっていることで、改めて「と」の意味はなんだろうかと考えはじめている。また興味深いこのデザインをみると、「国家」と「戦争」のあいだに、「祭政一致」「天祖」「神道」の字が配置されている。つまり彼らはこの構造をはっきりと読むことができる。つまり戦う国家と祀る国家とのあいだの「と」を構成しているものをしっかり理解しているということだ。自らを作った近代は過去と共通のものがないのにあるかのように解釈する投射が「祭政一致」「天祖」「神道」の言説である。「と」ともに、古代テクストを読み直すことによって自らの言説を成立させる近代のの投射を切断するような批判的位置に立ちたい。「靖国神社としての日本人」という言説でわれわれを形作る危険な言説が問題となってきた。この問題は、中国語翻訳の外部から批判的にあらわにされることになるだろう。

ツイッターは昔は短い文を書くスペースだけの簡単なものだった。映像が無いところで書く人は何かしなければいけなかった。演劇が観客に要求する参加のような行いだ。自動発光体のテレビとは異なる。言文一致の新聞とともにあった、漱石の現代文が無いふりをしている文学はなぜ読み手にあれほど訴えてくるのか

近代の民主主義(「明治維新の近代」)は、平等な人々が参加する政治を、極端に孤立した思考(「王政復古」)にはめこんで、全体主義(「昭和10年ファシズム」)に陥ることになった。アジアの民主主義は政治を映し出すスクリーン(思考の形式)を必要としている。「明治維新の近代」はスクリーンを構成できない。

「これはしたたかな体験だった。おそらく戦争と国家とは別々のものではあるまい。戦争とは国家のわざであり、国家とはまさに戦争をわざとするものだ。われわれが、国家がその力という力をかたむけつくすのは戦争においてであることを知った。」 「われわれは自分のなかに人間悪を断たなければならない。それを絶つことによって国家悪を断たなければならない。それが可能であるかどうかはよくわからない。しかし、それを断たなければならないという命法のあることを、われわれは知りそめつつある。われわれは国家に対する恐怖を断たなければならない。それを断つことによって国家の存在を超えなければならないという命法のあることを、われわれは知りそめつつある。」 ー 大熊信行『国家悪』

J'ai cherché à savoir ce que c'est d'être juif, explique-t-il. Ceux qui aujourd'hui se disent juifs, qu'est-ce que cela signifie pour eux ? Peut-être parce que j'ai cette même caractéristique de vouloir être avec le monde, tout en étant en dehors, de vouloir être à la fois pareil et différent , ce qui m'incite à me définir comme un juif du cinéma. Quand on rencontre l'autre, on est obligé de se définir soi-même , quand les Israéliens, après avoir nié leur existence, ont recontré les Palestiniens, il a bien fallu les voir en face. Moi, quand j'essaie de réfléchir à cela, je le fais forcément en cinéastem et le montage du champ-contrechamp reste ma manière d'interroger ces faits et cette identité. (Godard)

フェミニズムは弱者が弱者のままで尊重されることを求める思想です」に関しては、問題提起としてはいいのではないかと思います。男性原理に抵抗する女性原理に立つことかと考えてみましたが、女性原理の固有性が上野氏によって否定されていたことを思い出しました。原理でないとしたら、ネグリを読んだ私の理解ですが、平等を求める運動の展開のなかで、フェミニズムは、他のマイノリティーとの関係を保つことによって存在としての共通なものを構成する関係の思想なのかと考えます。思想が関係の思想として成り立つためには何が言われるか?思想は外部との接触によって豊かになっていく目に見えるものと目に見えないものとの関係を拒んできた国家の近代のあり方を問うことが要請されると思います。国家から目に見えない外国人・移民・亡命者との関係を排除するとする近代の本来性を受けいれることはできません

試論 ゴダールの『探偵』(Détective 1985)は、初期の映画とは全然違っていて、ホテルの部屋のなかだけで事件が解決されなければならない。映画は風景の存在感がない。それはそうで、部屋もなかに風景がない。音響の取り組みについて注意深く観察する必要があるらしいが、映像のほうは、どうも部屋の外へ逃げられない俳優たちの落ち込みとにおってきそうな疲労感がみえてしまうのだね。一場面の写真を見るとベッドの存在感に気がつくのだけれど、これは期待されていたものなのどうかはまったくわからない。 ゴダールの望遠と広角の中間地帯といえる35ミリのレンズの使用。これはなにを意味するのか? ゴダールパスカル的だ。但し「映画」に置き換えられた「神」は唯物論的に理解される。映画=神は我々の裡にあり、そして我々自身であり、しかも我々ならぬものである。異質なものを互いに近づけよ! ヨーロッパはモービリティーが低い。戦後の社会民主的改革にも関わらず、不平等で、思うほど階級的障壁も取り除かれなかった。そこで左翼はこの階級的障壁を揺り動かすべく右翼のネオリベ的市場主義を導入した。八十年代以降のサッチャリズム労働党や、 かのゴダール が「探偵」に調べさせたミッテランのことだ。ところで、この80年代以降、<労働>は、マル経ネオリベ的近経の両者から切断されて<存在>となった。崇拝の記号といえ軽蔑の記号といえ、<存在>に貶めた二つの学に大きな違いは無いだろう。停滞を打破すべく敢えて八十年代に右手のパンドラの箱を開けた左手に、 ゴダールみたいに、右側に気をつけよ!ともっとはっきりと警告すべきだった。