夏目漱石『こころ』ー子安宣邦氏の解体的読み

夏目漱石『こころ』ー子安宣邦氏の解体的読み ‪「明治28年の事件が1895年の事件とされることによって、その世界史的な意味がはじめて明らかにされる」という今日の子安宣邦氏の言葉は、確立されてしまった明治史的視点のなかでそれとは異なる世界史的視点を作り出す重要な意義を言っていた。わたしの理解では、子安氏の「うつしかえる、とらえなおす」世界史的視点は外部からする批判的投射を為すものである。投射が行う世界史的視点・アジア的視点から、京城における閔妃暗殺事件の意味だけでなく、その後の帝国主義日本の幕開けというべき新聞小説『こころ』の意味も明らかになってくるというのである。『こころ』の事件(天皇崩御と先生の自死)の時期の向こう側に「大逆事件」があると子安氏は指摘する。『大正を読み直す』が読み解いた「大逆事件」から、それが影響をもたらしている可能性のある現在のことをわたしは考えてみた。平成28年の事件を2003年の事件として投射することによって、2016年のイラク戦争と伊勢サミットとの関係が、国家神道の復活と解釈改憲軍国主義化の関係として、はっきりとみえてくるのではあるまいかと。令和の問題になる危険を恐れるのであるが、元号の時間的表象は、平成であれ昭和であれ、大正であれ、’明治へ帰れ’とする明治史的視点にほかならず、世界史的視点・アジア的視点を一国主義的視点に枠づけてしまった統合である。しかし世界史的視点・アジア的視点と明治史的視点は分裂しているのだ。分裂は分裂である。分裂を消去してはならない。夏目漱石『こころ』はこの分裂を「明治の精神」といわれるものを以って隠蔽してしまったかもしれない。先生の自死を問うことよりも、「明治の精神」の内部の奥に外部のなにかが反映されているKの自死を問題とすべきではないか。そのなにかは「明治の精神」が見えなくしている殺戮された他者の姿形。だからこそ、今日のポストコロニアルの批判的視点から、土地と言語を奪われたアジア民衆の抵抗の表象を読み解くことによって、「明治の精神」のユートピア言説(「反エゴイズム」というような見通しいい単一的見方)を解体する新しい読みが要請されていると子安氏は問題提起している。