執筆中。(「方法としてのアジア」について)

整理できていない...



夏目漱石から竹内好を読む、あるいはその逆。


「わたしは夏目漱石のよい読者とはいえないが、読んでいて面白いときは「西欧」を考えている文である。漢字漢文の高さはある。だが漱石は、明治維新の一国主義は前近代を失敗しているという反時代的な読み方をしているか?正直わからなくなった。日本人としてヨーロッパをどう読むかを帝国の大学の知が教えてくるときが問題である。近代西欧がいかに完全であるかを示すために正してくるとき身をかわさなければならぬと感じる。だが本気か?ヨーロッパとアジアの間にたつ距離としての不完全性にこそ意味があると思いながら書いていると漱石に期待したいのであるが、柄谷が言うようには...。「西欧」と表象されるものを読むことは、その言葉の意味を探しにてできるだけ遠くに行かなければならない。遠くであればあるほど真実性が増すように思われてくる。何故か?おおまかなことしか言えないが、われわれの思考が、言語学の起源の思考をもつ近代において成り立ったことと無関係ではないだろう。起源というのは遠くから己れの内部の中心へくるのである。「西欧」を探しに行くつもりが、「西欧」から線をひく帝国主義の共感者となっているということが起きるが、漱石は共感者ではなかったならば、帝国日本の読者にあれほど読まれたかどうか?帝国主義の近代の見方を批判的に相対化するために、<方法としてのアジア>に向けての物の見方の重要性がいわれる。一元主義的存在論<アジア主義-内-存在>の言説のユートピアから、多元主義存在論<思想史-外-存在>の言説の混在郷エテロトピーへ、とメモを残しておこうか。」